経理士試験

 さて気づくともう1か月以上は放置していたのだが、その間は何をしていたのかというと、友人と旅行に行ったりした(これはまたの機会に)のもあるが、更新をとどめていた主な理由は、建設業経理士の試験勉強をしていたからだ。

 今は工事現場の事務を担当しているだけなので、経理の仕事を担当しているわけではない。簿記にきちんと触れたのは新入社員時代の研修でひたすら仕訳の仕方を教えられた、というか覚えるまで帰らせてもらえなかったときだった。初学者と経験者の間には越えられない壁があって悔しかったというのが、興味を持ったきっかけだった。今まで生きてきて一度も興味を持ったこともやってみようと思ったこともなかったものに突然惹かれた理由を考える。

 仕訳の仕方をいくら覚えたところでどうしてその仕訳になるのか、みたいなのはわかるはずもなく、知りたいことのまわりをずっとグルグルと回ってる感じがした。仕訳の規則だとかその根底にある原理みたいに興味を持ってしまったのが運の尽きだった。

 加えて研修時代、経理関係にいた人たちは多くが音楽経験者だった。ただの偶然でしかないのに、なぜかそういう偶然にこそ本質があるのだと勘違いしてしまった。どこか楽器の練習だとかそういったものに近いものを勝手に拾い上げては、理解したつもりになっていた。

 というわけで今回はじめて企業会計原則や企業会計公準だとかその建設業独自の処理だとかについてきちんと勉強してみたわけだが、思いは常に前にあるのだけど、当然理解しきれるわけがなかった。

 こと今回の試験は、試験で点数を取るための勉強と気になることについての調べ事は違うという当たり前のことを思い出させてくれた。正しく記憶し、正しく記述するというのはやはりそれなりの訓練量が必要で、今回の試験ではそれがどうしても足りなかったように思える。

 

 試験に向けてきちんと勉強をする、というのをしたのは、大学卒業をかけた民法の試験以来で、気合を入れて全くわからないものに挑むということを2年ほどやっていなかったことに気づく。だからこそ、今回不合格に終わっても、久々に頑張った、ということだけで収穫があったと答え合わせもそこそこに思っている。

 同時に、何か一つの目標に向けて頑張る、ということを長らくしていなかったことに気づく。何らかの言い訳だとか、別の機会にリベンジする方法だとか、そういったものを機会のたびに用意していた。これは卒業をかけた民法の勉強とかよりもはるか前からの問題だった。

 悲しいことは、こうした機会を試験勉強のようなものでしか作れなかったということではあるが。結局この体質から抜け出さないと、いつまでも同じ地点で同じような悩みを抱えているようなことになる気がする。もうおんなじような悩みでおんなじようなことを続けるのは正直飽きた、新しいものが見たい、新しいところに行きたい。

蓄熱

京都の夏は暑い、と夏が近づくたびにいろいろな人に言われたが、そういいたくなる理由がものすごくよくわかる。本当に、本当に暑い。どうしてこんなに暑いのかわからない。

エアコンの効いた部屋で快適に過ごす、このことがどれほどの贅沢かがよくわかった。本設電気設置前の鉄とコンクリートの箱の中を少し歩くだけで、口の中が干上がる。仮設の巨大扇風機にも限界はあり、電池駆動のファンを搭載した空調服も時間とともに効果がなくなっていってしまう。

どうも熱がすぐに体から取り除かれない。十分な水分を摂り涼しいところで休んでも、翌日、翌々日と、熱で感じた疲労はなかなか抜けず、ずっとほてっている。

最近、肉体労働が増えてきた。型枠の中に生コンクリートがきちんと行き届くように木槌でベニヤ板をたたき続けたり、廃材をひたすら集めたりしている。段ボール箱も合計何箱運んだかわからない。身体を動かしているとお金をもらうこと、時間があることがどれだけ尊いかわかる。必要か必要でないかを勝手に身体が判断してくれる気がする。(もちろんそういってするべきことから逃げているというのはあるのだが)

だからだろうか、肉体労働をしていると余計なことを考えなくなってくる。運んだ荷物が組みあがっている場面、ゴミや無駄なものがなくなった場面に出くわすと、連帯感や高揚感を生々しく感じる。自分がいかに身体や一定の動作に従わせることから得られるものを軽視していたか。

それにしても何とかこの熱を取り除かなくては。

ドライエリア

 日記のような、といっても何か気持ちが高まった時に書いたりするメモ帳のようなものは以前から続けていた。もちろん人さまに見せられるようなものではなく、自分ですら見返したくないようなものばかりがたまっている。

 どうも文章を書くことが好きみたいだ。やりたいことは、好きなことは、といろいろ聞かれ、いろいろ考えてみたが、こうやって文章をこねくりまわしていると心が落ち着く。ここ10年くらいだろうか、書くことにものすごく臆病になっていた。それは間違ってはならない、誰に対しても伝わらなくてはならないということを意識しすぎていたからだろう。何もない場所に文字であれ考えであれ、何らかの跡を残せる、そうした楽しみ方もあっていいのかもしれないと思い始めた。

 

 建設関係の仕事をしていると、日々新しいことに出会う。設計されたものと現実のものが一致していなければならない以上、多くのことは実物を見るうちにそれを取り巻く理由のようなものを理解したつもりになれる。しかし何度説明を受けても、どうもわからなかったものがあった。

 地下階のある建築物において、建築物と、地下の土を押さえる壁(=擁壁)との間にできる空間のことをドライエリアというらしい。地下階環境の採光、通風面での改善に加え、地下への物資搬入を容易にするために設けられるそうだ。ドライエリアを広くとる場合、机や椅子を並べたり、園芸スペースにも使えるらしい。

 旧式のトースターの中に閉じ込められると、その外の世界の遠近感は全く失われるだろうことを、工事現場のドライエリアに入った時に知った。擁壁と建築物躯体の隙間に閉じ込められ、そこから組みあがっていく仮設足場から空を見上げると、この隙間が建築物上必要な機能だけで説明できるとはどうも思えなかった。

 コストを投下し造成した地下は、人が往来する地上よりは、持ち主がその空間を支配している力を示しやすいように思える。その地下を、どうして空間の自明な建築物で覆わず、あえて外か内かあいまいな、外部に開かれた空間を設けようとするのか。上述のような機能上の要請が先行していたとしたなら、そこに機能外のものを持ち込む/持ち込もうとするのはどうしてなのか。

 

 あえて外に開かれた場所を持ちたくなるのだろうか。外に開くことで、自分がコントロールしきれない場所を作りたいのだろうか。もし地下階にドライエリアを設けることをそう説明できるとすれば、このブログを開設し自分の書いたものを発信しようとする試みも、その延長線上にあるのかもしれない。