現場時間 2

 ここにしばらく記事を書こうと思っても書けていなかったのは振り返れば適度に日常に追われていたからだとわかる。毎朝与えられた仕事をこなし,新しいことを知り,そして何かに貢献している感じを味わえて,仕事しているという満足感をもてていたからだろう。現場から離れて早くも2カ月が経ち,何に悩み,どんなことに傷つき,そして何を面白いと感じていたかは少しずつ忘れていっている。それらは今の日常のなかになかったものとしてたまに湧き上がるに過ぎない。

 昼食は雑居ビルの2階にある海鮮居酒屋の寿司セットや,大通りにあるゴルフ用品を扱うビルの地下に入る垢ぬけた割烹の日替わり定食が定番になった。それなりのオフィス街なので,帰り際に一杯ひっかけたくなるような立ち飲み居酒屋や窓にメニューを書いているような南欧バルとかがやってるランチとかも気になるのだが,それらには目もくれない。いつもの店に行きいつものを頼む,という諸先輩たちが一緒である以上,それを乱すことは許されない。選択肢として残り続ける限りそれらの店は魅力を失わないのではないか。

 暖かい食事に最初は感動したものだった。食事をしているときに,熱い,冷たいという感覚を意識するように自然となっている。お味噌汁が唇に触れたときに味噌の香りを感じられるか,一気に流し込んでしまえるか,温度という視点からその日の食事を見るようになった。冷えた味噌汁や味噌汁の煮つけを作るたびに現場ではよく怒られたが,もう怒られなくなっても習慣は残っている。

 かつて海外の小学校にいたとき,食事の時間は憂鬱だった。周りはビリビリのアルミホイルに包まれたハムの薄いサンドイッチを食べているのに,私は母がにぎってくれたおにぎりを食べていた。もちろんおにぎりなんて得体のしれないものを現地の小学校低学年の同級生たちが見過ごすことはなく,合うことのない目線を感じないことはなかった。

 食堂では50円程度で日替わりポタージュが飲めた。思えばきちんと野菜から調理していたので,しっかりした食堂だったと思う。ありつくには傷やくぼみに欠かないアルミの器をもって列に並ばないといけない。そして一つ上の学年の担任をしている大柄の先生が寸胴からその器にポタージュを注ぎ,必ず「ありがとう先生」といわないといけないルールがあった。

 慣れてしまえばどうということのない儀式なのだが,当時の私は,並ぶときに私に注がれる今にも本性を暴いてやろうとたくらむ視線や,当然のように列を抜かそうとしてくる上級生がいたこともあって,憂鬱だった。さらに私の食べるおにぎりも相まって,毎日決まった時間に行われる,同じ筋書きの出し物の出演者にさせられているような気がした。

 ただそのポタージュは,すべての子供は猫舌だという配慮のおかげなのか,いつ飲んでも適温だった。口に入るとどんなときでも暖かさを感じることができて,このことはこれら汁物の満たすべき本来の役割をきちんと心得ているように思えた。

 ここに昔のことを懐かしみ脚色しながら書いているのは,今の日常がどんどんと速度を上げて,日常を楽しもうとする自分を振り落とそうとするその本性を明かしてきたからだ。知らないことは際限なく湧いてきて,目印だった締め切りは引きすぎた蛍光ペンのようにその役割を果たさなくなってきた。目的は忘れ去られ,習慣によって体を動かすことを強いられる。アドバイスは口調を強め,まだ来たばかりなのにはもうこれだけいるのにに変わる。そのとき日常に息継ぎの場所がなくなっていることを感じ,息継ぎを試みるほどにどんどんと沈んでいくように感じられる。

 感動した昼の食事もいつしか定番として感動を欠いていき,ランチの話題も仕事の話の多さに気づくようになってきた。そして味噌汁を飲んだところで感じるのは塩分を多くとりすぎているとか野菜が足りないとかで,遅れないように,でも待たせないように食べないといけないという駆け引きの中にいることは忘れてはならなかったはずだと反省させられる。

 どこにいてもこうして,今いるところから一歩引いて,それを自分が楽しいと感じる話に還元することしか楽しみを感じない以上,「ここではないどこか」を探そうとしてしまう以上,環境を変えたところで仕方がないのではないかとも思う。人の集まりをどうするかよりも,人の集まりがどうあるかにしか興味が持てなかった。そんなことを思いながら執務室に売りに来た弁当を買うと,何を揚げたのかわからない揚げ物と,ひなびたキャベツを強引にマヨネーズで生き返らせた付け合わせがあって,現場の弁当を食べながらサラメシを見て号泣していた先輩がいた話を思い出した。その先輩と同じ場所に立っているのに忘れていたことを思うと,日常はあまりにそのスピードを上げてきていることに気づく。

現場時間 1

工事現場という特殊な環境から抜け出して、すでに1カ月近くが経とうとしている。その間旅に出てみたり、新しい職場の雰囲気や業務になれるように努力していた。

昨日、好天に襲われたので吉野に向かってみた。高校の修学旅行で行った以来の思い出の場所だが、また訪れることになるとは思わなかった。吉野中千本の大きな観光ホテルの小さな部屋にいて、一緒に修学旅行らしいことをしていた誰もが、また吉野という地名を聞くことになるとは思わなかっただろう。

山登り、というかそれはただ坂道を上るというほうが近かったのだが、歩みを進めるにつれて普段の生活では言葉にならなかったような考えがふつふつと湧いて出てきて、結果として1年半近くいた工事現場での生活に戻ってきた。

悲しいかな工事現場では筋立てというようなものはなく、ただ無限にあるかに思える時間がただ意識されるものになり、その中では何度も述べているように、過去の過ちや、努力の足りなさを何度も突きつけられるだけだったように思える。

今日はそんな現場にいる同じ事務系研修をしている後輩を訪ねてきた。やはり同じように、むしろそれ以上に悩んでいて、しかし自分には彼らを慰められるような言葉を持ち合わせていなかった。ありきたりな訓示を垂れることも、自分の受難と克服の物語を展開するのも何か違ったので、悔しいけれど相槌から一歩進んだようなところで自分やかつての上司の非道について大げさに語っていた。それでも少し話しすぎたように思うが、ではその場にいて語らないことを選択するほど自分の美学は人の痛みよりも勝っているようにも思えない。

しかし吉野山を上っていて、自分が過ごした現場での時間を思うとき、それはすでに何ら将来を予感させるものでもなく、また過去の後悔を呼び起こすものでもなく、その中で完結し、自律的に動く人たちがいた。そしてもちろんその中には毎日そこに通っていた自分もいるような気がして、二度と繰り返したいとも思わないが、ふと立ち入っても拒まれないような距離のところにそれらは現れているような気がした。だから安心してそのことを話すことができるようになったと思ったとき、もう工事現場での時間は終わり、自分には別の時間が流れ始めたことに気づいた。

事務的なもの

今日は同期水入らずで久々に飲み、いろいろと話したのだが、どうも皆似たような状況に置かれてるみたいだ。自分がいる現場はもう1か月もないうちに施主への引き渡しなのだが、その書類関係だとか、それにまつわる業務だとかに、情けないながら追われている。そして追い立てるものは業務量というより、聞きたいことを聞けるような状況にないことや、特殊な業務なのに十分なサポートを得られていないこと、何より誰も何をすべきかわかっていないことに起因することで、そのしわ寄せはいわゆる事務担当に来ている、というような状況だ。

事務、という言葉は非常に便利で、敬意をもって使うこともできれば、侮蔑の意味を込めて、もしくは話し手とは身分が違うことを強調して使われることもある。そして私はその言葉が自分に向けて使われるとき、どうも後者の、つまり身分が違うことを強調する上に侮蔑の言葉が潜むようなもの、として受け止めていた。ただそれは逆に事務的でないものについて考える機会をくれたともいえる。立場の違いを強調する場面においては、その相手側はすべて事務的なものを担当する人になるのではないだろうか、そんなことを考えてみるも、納得する説明は与えられない。

私はいわゆる官僚的なものをごまかすための志に潜む富国強兵的な熱量や、組織的な意思決定のような何かからできるだけ遠ざかり、何かを作る情熱の中にありたいと思っていた。だから国の行政を担おうとも、大企業や大組織の行政官になろうと思わず、あくまで何かを作るような作り手でありたいと思っていた。喫茶店のカウンターで横並びになった就活生の男女が就活テクニックや将来、仕事について語っているのを聞いている中でふと当時の就活を、苦戦した就活を思い返していた。今もう一度就職するとしたら、何がしたいだろうか。就職以外の道を選ぶ強さは俺にはなかっただろうし、今でも悔しいけれどないだろう。

話を戻して、しかしそこでの作ることとは、まだ見たことない難題への挑戦を意味していたのかもしれない。かつてバンドで曲を書いていた時や、サークルの劇のフライヤーを作っていた時などは、作り始める前に、明確な問題や不具合があった。その時の熱量というのは、まだ見たことないものそのものが出来上がる過程から引き出されるというより、まだ見たことないものはどうあるべきかを考え、そこから必要な手法を導き出すことから引き出されていたのかもしれない。すなわち、すでに作り方がわかったものを作り上げることほど、苦痛で、面白みに欠け、誰でもできるようなくだらないものはないように思えるのだ。

不思議な話で、そのとき、かつて遠ざけたものはまさに今欲しいものだったのではないかと思えてくる。遠ざかるために選んだものはあくまで遠ざかるためのものでしかなく、必ずしもそこに求めていたものがあるわけではなかった。かつて同意しなかった多くのものの真意を今になって知ったような気がして、至らなさや友たちに遅れた気持ちばかりが先走る。これはコンプレックスや過去の選択の後悔でなく、ただただ自分が至らなかったことへの悔しさと、その先に待ち受けるであろうものの重さへの、可能性の軋みに思える。

あと少しでこうした「ものづくり」の最前線から離れるという事実には、さみしさも期待もなく、かつて期待したものは、その最前線にはなかったということを改めて確認したという印象を抱くに過ぎない。ただきっと、離れたときにはじめて、それは「そこにあった」ことになるようにも思えるが、それはまた別の機会に述べられれば。遂行することも無く、ほぼ思うがままに執筆したが、翌朝読むに耐えられるものになっていれば幸いだ。

足場をばらす

今いる職場に配属になったときはまだ建物もなく、地面を掘り返していたのに、ついに建物の周りの足場がすべて解体された。

ここ最近の週末は(嬉しいことに)何かと予定を入れていたり、東京に戻ったりしていた。さすがに何もしない日がほしくなったので有休をもらい、今日一日たまりにたまった家事をしてから近所のジムに行った。週末の夕方過ぎに行くとたいてい埋まっているマシンもさすがに月曜の昼過ぎには使われていなかったので、初めてのメニューを取り入れたりしてみた。今、動作のたびに身体が軋むので効果があったのだろう。

一人暮らしをしてからそれなりの時間が経ったからか、思いついたことのうち自分ひとりでできることは、多少スケジュールに無理があってもそれを実現しようとしてしまうようになった。かつて家族と暮らしていたときは何かとルールが厳しく、外出するにも理由だとか、いつ帰るかとか、そんなことを報告しなくてはいけなかった。休みの日は好きな時間に起きて好きな時間に外出できる自由があることに今一度感謝しなくてはならない。そして今日はジムの帰りに飽きるほど餃子が食べたくなったので、部屋を整理し、一人で餃子を包み続けて1時間近く過ごしていた。

ここ最近多くの人と会うことができた。大学時代の友人や会社の同期や先輩、親族と、改めて多くの人に囲まれていることを実感し、私に時間を割いてくれる人々への感謝の念を新たにした。しかしそれ以上に、それがあまりに日常的でないことだからか、そうした楽しい時間が過ぎたあと、その過ぎた時間を埋めるかのようにして、頭の働かない時間がやってくるようになった。その時間は何をするにも段取りが悪く、計画も立たず、何もしないのが一番と思わせるようなものである。

こうした何もしない時間は、今まで何よりも嫌だった。なるべく一日を予定で埋めて、明日以降への投資と頑張っていたし、今でも何もすることがない状態よりも忙しく走り回っていたり、何かに手を取られていたりするほうが好きだ。今思えば迷走だったように思える多くのこともそのときは大真面目にやっていたのは、かつてむやみに暗がりを恐れたように、ひとえにこの空白への恐れだったのではないだろうか。

だから当初は健康のためと思ってやむなく通っていたジムだったが、ある日突然面白くなってきた。筋トレは自己流だし効率が悪いことは百も承知なのだけれど、それでも日に日に扱える重量が増えていく喜びがあったうえに、やるべきことが次々わいてくるからだった。その喜びは日々がなんのためにあるのかを教えてくれるからだったように今では思える。

ところがある日扱える重量は頭打ちになり、当然のようにそれ以上を扱おうとすると体を壊してしまうことがわかるところまで来てしまった。今までおろそかにしていた柔軟性の向上や体幹トレーニングに労力を割かないといけないことが明らかだった。期せずしてそれは予定やすべきことに追われるという当たり前だった日々に追いつけなくなり、何もしない時間が顔をのぞかせはじめたことを意識するようになったころだった。

知る限り、建物を建てるうえでは仮設という考え方が必ず出てくる。仮設足場、仮設クレーン、仮設鋼材といったように、いずれも必ず建設現場では見るものであるものの、最終的な建物には含まれないものばかりである。しかしこれらが効率的に運用されることこそが、プロジェクトの成否のカギを握るといわれるほどに重要であるとされている。事実仮設計画こそが工程の中でも鬼門となることが多く、その工程作成を担当できるようになるまではやはり相当な経験が必要だそうだ。

現場に鎮座していた巨大な仮設クレーンが解体され、さらには建物の外周を取り囲んでいた仮設足場が解体されたとき、プロジェクトも終盤に差し掛かり、その山場も超えたと誰もが感じる。そしてそこで使われていた足場の材料はまた次の現場へと運ばれ、またそこで足場を組みあげ、解体されてと繰り返される。建物の解体工事にも足場は使用されるので、ある建物の新築工事の際に足場を組み立てた職人さんがその建物の取り壊し工事の際の足場の組み立ても担当するということもあるそうだ。

今日包み続けた餃子だが、油と過熱時間が足りなかったからか、皮がくっついた上に水気を多く含みすぎてしまっていて、皿に盛った時には餃子の姿というよりも麻婆豆腐のそれに近かった。トレーニング後だったこともあってか、そのときふと現場事務所から最後の足場材を乗せたトラックがゲートを出ていくのを思い出したので、文章にしてみた。

やりそびれたこと

連休への気持ちが変わってしまったことに少し怖くなった。かつて長期休暇に入るとやることがなくて体調を悪くするといっていた人がいたが、それはあまりにばかげた発言に当時は思えた。私にはこれだけやりたいことがあるのに毎日仕事する生活をしていたのでは到底できない、やっとのことで得られた自由な時間なのに、どうしてそれをさもありがたくもないもののように言い切ってしまうのか。その話は1年前に聞いたものだったと思うが、いざ連休が終わろうとするとき、やりそびれたことの多さに苦しさ、息苦しさを少し感じていることに気づく。

やりたいことを絞ってしまえればいいものの、どれも楽しいと感じる限りは続けてしまう。例えば音楽だけでもトランペット、ベース、ピアノといろいろと手を出してみたがどれもそれぞれの面白さがあり、やっていて飽きない。ただどれもこれ以上の高みには今までとは違う努力を要することがわかるところまで来ている。そしてこうした課題は音楽以外の領域にもある。

3日間では、何もせずにいるには長すぎて、何かを目指して頑張るには短すぎるのだ。ところが万事そうなのではないか、やりたいことの優先順位をつけず、それぞれに計画を立てていないからそう感じるのであり、それらがあればたとえ1時間しか時間がなくともやりそびれることなどないのではないか、と閃いたから久々にここに来てみた。

 

 

仕事ももう慣れてしまい、かつてこのブログを開設したころとは比べ物にならないほど多くの業務を担当するようになった。もっとも同時に、その担当のうちに自分の能力や必要な技術も限定してしまうようになった。必要以上のことはしない、面倒な問題には自分から首を突っ込まない。組織として生きる以上仕方がないことであろうが、かつて仕事で気になることは何でも吸収してなんでもやってみようとしていたことを思うと、少し寂しくなるときもある。必要な知識は自分で勉強すればよい、必要な経験は自分の担当する中での経験を応用すればよい、かつては苦手だったこれらのことも、いざ古巣を離れて自分の好きなようにすればよいとなると、案外できるようになっていた。最初からうまくいかなくても何回かやるうちに慣れたのだろう。

職場での人間関係もまさに切り詰めていったものの一つだ。かつては同じ職場の人間である以上何とか仲良くしようと思っていた。私のことなので決して露骨に対立するような真似はしないが(不思議なことに嫌いな人間にはその態度を率直に表明できる人がいるそうだ)、今の職場の人間関係は決して最善のものとは思えない。この業界のいい点は、プロジェクト単位で人が入れ替わるため、どんだけ嫌な人間がいようとそのプロジェクト終了までの辛抱という点だ。そしてこの職場も竣工が間近に控えるからこそ、この微妙な距離はあと少ししか続かない。

 

先日職場の忘年会があった。どんな会でもそうであるように終始つまらないということはなく、我を忘れて笑う瞬間や渾身のジョークが決まった時の全能感を味わう瞬間は幾度となくあるのだが、終わってみると酔いとは違う疲労感に溢れていて、それはまさに同僚との会話の不在によるものだと一人になってわかった。

きっと人が集まった時にする会話なんてどこででも同じようなもので、目の前にいる人の下半身事情や、少し離れた席の上司の悪口がほとんどで、運悪く生贄に選ばれた人が不機嫌になるスイッチを全員で探る黒ひげ危機一髪が行われればよいほうだ。ただこれが1年前に見た風景と同じものが続いていると気づいたとき、仕事の進捗に反して、関係性は全く進捗がなかったことを見せつけられた。砂を食べているような気分になった。

私を尻目に当の本人たちはまさにその景色の中を燃えるように生きていて、それはそれとして楽しんでいるのであった。この疲労感が仲間外れにされていることによるものであれば気は楽なのだが、その原因は一年前にした会話と仕事以外に話すこと、話せることがないということにあるように思えた。同じ話ばかりでつまらない、というあまりの単純さに笑える。

 

 

ふと楽器の練習をしていても、もっと有効に練習すべきなのではないかと思う瞬間がある。本を読んでいても、もっと読むべきものがあるのではないかと自問する瞬間がある。どれも仕事とも無関係の上、自分が好きでやっている以上誰に迷惑をかけることもない。ただすべての成果が自分にかかるものとわかると、中途半端になるほどに自分にうしろめたさを感じてしまう。(むしろ仕事終わりだと、息抜きとわかるからどれだけ非効率でも自分にうしろめたさ感じることはなく、そのあたりの自分の自動調整機能が少々悔しい。)そしてこの時間にして、3連休の間少しずつたまっていったうしろめたさが首あたりまで来てしまったため、今せっせとここで言い訳をして明日を健やかな気持ちで迎えようとしているのだ。

けれどもこうしてうしろめたさをうしろめたさのままに供養することを続けた先には、どうも先日の忘年会が待っているように思えてならない。

一人焼肉

 先日までの心理的プレッシャーからの解放と、急激に強まる仕事への社会的な風当たりの強さから、帰れるなら早く帰ることを心掛けている。それが実現できることへの感謝から足早に現場を去るとき、ふと頑張りそびれた一日が後ろ髪を引いてくる。

 なぜか最近そんなときほど無性に、焼肉が食べたくなる。得られない達成感を得たときよりも、それを夢見るときほどあの焼けた肉の煙が恋しくなる。

 かつて大きな山場を越えた時は、何かと焼肉をしていた。ただこの先あれほどの大きな山場は来ないのではないかと思うほど、焼肉からかつての高まりを感じられなくなっていた。ここ最近食べた焼肉は、どちらかというとスポーツのそれだった。品質は、部位は、美しさは、うまみは、尽きない議論するほどに焼肉からは遠くなっているような気がした。

 店主がロースターにマッチを投げ入れて点火してくれる。肉を網の上に乗せアプリを起動し日常に戻ろうとするとき、試みに携帯の電源を切ってみた。つまり、ただ焼けるのを待つということに集中してみようと思ったのだ。

 果たしてテッチャンは想像よりも焼けず、なかなかしぶといので何度もひっくり返すのだが、その度、久しぶりの集中力だと気づく。いつだって何かと話そうとしていたし、いつでも何かを聞こうとしていた。自分の意見を述べるのは客観的なものに言及するときに限定し、説明はなるべく客観的でわかりやすいものになるよう心掛けていたから、忠告のすべてを真正面から受け止めてしまっていた。多くの人の話を聞き、多くの人と仲良くやっていこうとするほどに、大事なものを、何を話そうとしているのかわからないけれどそれでも、と。

 

 一瞬でも何か一つのことに集中できる時間が全くもてていなかった、加えて集中するのは体力もいるし年々難しくなっている気がする。

宅建士

 さてまた前回の記事から期間が開いてしまったけれど、その間宅建士の試験に追われていた。今日は簡単ながらそれにまつわる雑感を記録しておきたい。

 宅建の試験はどうやら会社としても絶対に受けてほしいものらしく、この試験に合格できなかった場合は一定の昇給や昇格に障害が出るそうだ。だからといって周りの人々が全員持っているかというとそうでもないが。

 そしてこの試験のことをここで書くのは、非常に思い入れが深い――もちろんそんな思い入れなど早急に捨ててしまいたいのだが――からだ。

 この試験を最初に受けたのは去年だが、何かのせいにするつもりもないけれど、結果は不合格だった。ただ自分は大学で法学部と呼ばれるところに在籍した以上、誰もが簡単に受かるといわれているこの試験くらい2週間未満で余裕で受かるだろうと思っていた。もちろんそうはいかなかった。

 しかしどうも世間一般の評価は自分の経験とは違うみたいで、宅建なんて本当に簡単な試験で、法学部卒ならそもそも勉強しなくてもカンで受かる、そこまでのいわれようだった。果てや立派な大学を出たなら、宅建で苦戦するなんてこと自体があり得ない、とまでの言いようだった。もちろん大学時代の友人には、宅建に落ちたといえば、今まで見たこともないような表情をされるのがとどのつまりだった。

 そう、宅建試験とは、一定の高等教育を受けたなら、絶対に落ちてはいけない試験の一つと、思われていたのだった。もちろん、私もそうだと思っていたから、その言い分は理解できた。

 

 ただどうやら私の場合、現実は違った。今までしてきた類の勉強とはタイプが違う。そして何より、それなりの時間を割いても成績が伸びる気配がない。世間がいうほど簡単な試験ではないように思えた。本当に簡単ではなかった。

 もちろん単純に際限なく机に向かって、時間をさけば問題のない試験だとは思う。だがしかし、どの論点が出るかわからず、ただひたすら不十分な説明しかなく体系的な説明のないテキストと解説を何回も読み込み、何が間違いかを選択するだけの過去問を解き続けるというのは、それなりに骨のいる勉強だった。頭では理解していても、たった一言読みとしただけで正誤が違い、合否が分かれるのだった。毎日精神をすり減らす労働があった後にその作業に取り掛かるのは、なおさらシビアなものに思えたのだった。

 このとき、どれほど諸兄の無責任な言葉に押しつぶされそうになったかわからない。受ければ誰でも受かる簡単な試験、落ちること自体があり得ない、そもそも勉強が必要なのか、そういった無責任な言葉に、どれほど自分がみじめに思えたかわからない。そういう人のほとんどがこの試験を受けていたわけではないので真剣にとらえる必要はないのだけれど、戯言ほど、時間が過ぎてから胸に刺さることが多い。なおさら、そのいわんとしていることが納得できることほど。

 

 今回の宅建試験の結果は正直わからないが、わかったのは、これまで自分が放った無責任な言葉がきっと、どこかでどれほど多くの人を苦しめていたかということに思いをはせる必要があるということだった。何気ない一言が、挑戦しようとする人の心のどこかに鉛筆の芯のように刺さっていることがあり得るかもしれない。その苦しみに対して、今まで無責任でありすぎた。その場限りの面白くもない面白さを追求しすぎていた。

 そして、できないのには、誰にでも事情はあるのということも痛感した。努力さえすればなんとかなると思っていたことも、多くはそれを妨げる原因があり、できない。今までの自分は、それを見逃してくれる環境に恵まれていた。できないといったら誰かがやってくれた。やりたくないといったら、逃げることもできた。ただそれができなくなった今、それでもできないというなら、それなりの理由があるのだろう。できないことをできないというだけで責めるのはあまりに自分勝手だということがわかった。

 

 そう、この試験は困難に対して向き合う人との接し方を教えてくれたような気がする。私も絶対に落ちたくないというプレッシャーのあまり醜いふるまいをどれほどしたか。すべてが終わった今、ものすごく反省している。そして他人に対して、いままでどれほど、「簡単だから絶対受かる」と同類のことをどれほど無責任に言っていたかと、反省している。

 こうした数々のことに宅建試験を通じて思いをはせる事ができた。少なくとも僕には、ものすごく大変でしんどい試験準備期間だった。そんなことはない、何を言っているんだという人に対しては、その言い分も理解できるから反論しない。ただ今は、結果のいかんにかかわらず、すり減らした精神を恢復させたい、ただそれだけを願うばかりだ。