避難訓練

長めの夏休みだというのに夏らしさを微塵たりとも感じないのは,能動的に夏を探してないからだろう。しかし夏らしさを探しに行こうとしたところで,いわゆる「夏らしさ」にはどこか満足できず,何気ない場面,例えばいつも使う駅の一場面,を自分の拵えた「夏らしさ」の額縁の中に入れて初めて心の平穏を得られるように思える。しかしそれには,私が絞り出した「夏らしさ」を受け取ってくれる人,評価してくれる人が必要だという問題が含まれる。

自分の作ったものに自分で満足するという能力があればそもそも長めの夏休みなどもらう必要もなかった。どうしても自分の作ったものが誰かに届くということ,それによって誰かを動かした,自分を認めさせたという実績が欲しかった。そう,欲しかったのはその実績であり,「何がしたい?」と問われれば,実績を集めるスタンプラリーこそがその答えだった。旅行先に行って名所を写真に収めることを使命として楽しむ観光客と何も変わらず,しかしそうした振る舞いにどこか冷笑的だったのはつまるところそこに自分を見ていたからだろう。

誰かの振る舞いに対して冷笑的な立場をとるということはそれ自体が一種の自分の立場の表明なのだろう。子供のころからよくマッサージの腕を褒められた。専門家ではないにせよ身体の緊張があるところはそれなりにわかる。緊張した場所をその緊張の度合いに応じた力で押してやると,徐々にこわばりが取り除けるのだ。いつからか人が話すとき,その論のこわばり,緊張しているところをみつけたら,そこを押し返してやると,論調は緊張はほぐれるものの,得てして真面目な相手からは揚げ足取り,不真面目そして皮肉屋として常識を疑われる。雨の昼下がりに,アイスクリーム屋の店主を怒らせることをゲームと呼んで興じる恋人のことを歌った曲があったが,どこかそれに憧れていたのかもしれない。冷笑的な自分,人が頑張るようなところでは頑張らず,人が頑張るものを見てはそれは小馬鹿にするような自分に自分を見出していた。もちろんそれも,別の人との関係の中で得たものではあったが。

先月東京に戻り,家族,友人,同僚といった,お世話になった人たちに会う中で,この会社に残ることを決めた。

日曜日が去り月曜日がやってくるのは恐ろしいが,それよりも恐ろしいのはこの恐怖と解決の反復が少なくともあと千回は続くことだった。一過性の不安は対策を講じることで乗り越えられるものになるが,持続を原因とする不安は,対策を講じたところでそれを煽り立てるものにしかならない。およそ40年,満杯のバケツを頭にのせて村中を歩き回るような労働に時間を捧げることが続くと思われたとき,約束された安定的な将来を形作る時間は,栄光に向かって走る線路を切り開いていく過程としては理解できなかった。

そこに一歩ずつ踏み込んでいくことは,前日から続いている避難訓練を明日も継続することを決定することのように思えた。訓練は,目的とシナリオとそれに沿ったロジがある限り終わらない,いや,目的が達成されない限り終わらない。終わりを決定しない限り改善を求められ,都度行われる改善に着目すれば前進しているかのように思える。ただ対策を講じる限り,翌日も翌々日も続いていく。では終わりはどこか?日常はいつ取り戻せるのか?

そもそもの避難訓練を何らかの大きな力で終わらせることはできる。本当に非常事態が発生した,誰かが王様は裸といった,このように終結を外に求めることもできるが,主体的に今すぐ取りうる選択肢として,そもそもその場から立ち去るというものがある。そして先月の自分にとって勤務する職場を去るとは,倒れたことによる条件反射としてよりも,こうした救済の手段のように思えた。

果たしてそれは救済になりうるのか。ところで人と話す機会が減ったからか詩的な気分は平均して高いのだが,平日の散歩の後にカフェに入ると,その一層の高揚を感じる。携帯を確認してもニュースの通知しかなく,顔を知っている人たちはどこにもいない。ガラケースマホを交互に見るスーツの人がいて,母親と同い年くらいの女性が何人かで話していたりする。そして稀に見かける若い人は学生らしい目の輝きをもった人たちで,残念ながら自分のような人は,どこにもいない。人々の集まりから完全に切り離されたような感じがするからだろう,自分がいなくても世界が回っている場面はこんな身近に広がっている。

ニュースには勤めている会社に関するものもあった。休んでいるときに多くの人が,その人が倒れたら回らないような組織は,きちんと機能していないという趣旨のことを言ってくれた。私が倒れた翌日,休職する旨を伝えるためいつもの時間に出勤すると,私の机の上には一つも未決の書類がなかった。すべて「フォロー」してくれていたのだった。「君のところはチームとしてよく働く」といっていた営業課長の言葉の意味をこのとき理解する。自分を持った個人の集まりと,組織によって役割を与えられた個人は,同じものを見ているようでいて鮮やかに食い違う。

そして喫茶店を出たところのエスカレーターの下にあるベンチには,歳も結構なおばあちゃんが浅く腰かけている。頻繁に彼女を見かけるので,何か用があってそこに居るというわけでもないだろう。居るのだ。ただこのとき,自分が逃れようとしていた不安はどこまででも,自分が自分を見出す限り影のように追ってくるのではないかと閃いた。閃きは得てして誤るけれど,靄が晴れるその一瞬だけにでも感謝したい。「私は?」

身体を鍛えたほうがよいという医者のすすめもあって,水泳をはじめた。すぐ疲れてしまうので水泳部だった同期にアドバイスをもらうと,どうやら体幹を使えていないらしい。出た,体幹。何をやっていても,結局ここに行きついてしまう。あらゆる運動において,体幹こそが競技者の本質を担っているのではないか。

夏季は市民プールの屋外50mプールが開放される。平日の夕方,西日が水の底まで届く中で,日に焼けた小学生の集団や筋肉質な高校生がそれぞれの夏休みを楽しむ中に,何日も髭をそっていない,腹もだらしなくたるんだおじさんとして交じるのはさすがに心に悪い。テレビが映した甲子園の高校球児の表情を思い出す。しかし水の中に入って距離やタイムのことを一度すべて忘れて,体幹を意識すると――幸いなことにコツが自分なりにつかめてきて,へその下とおしりに力を入れると,肩や股関節が胴体から切り離されたように自由になって,残された胴体こそが体幹と呼ぶべきものなのかもしれない――見落としていた身体との回路を回復しているような気になれる。これこそが夏らしさなのかもしれない。

 

同僚

休んでいる生活が日常になってきた。休む前,そして休んだ当初がどれだけおかしい状態だったかということがよくわかるようになった。

ひとつ大きな勘違いをしていた。うつはそもそもの心が弱い人が現状を受け入れられず拒否してなるような病気で,肉体的にも元気でノリが良ければ大丈夫だと思っていたが,それは一面的だった。何かを拒否するということ自体ができなくなる。拒否とは何かに対する働きかけであり,その働きかけ自体ができなくなるのだ。働きかけるものも,しようとする起点も見つからない,つまり自分が,ものがどこにあるのか全く見つからない。そしてそれは元気やノリだとかとは全く無関係になってしまう。確かに現状を受け入れられなかったり何かがおかしいと思うことはこうした宙づりの引き金になるが。

休みの間,何かあるたびに部長に連絡することが義務付けられている。何かあるといっても診察の経過だったり,薬の量が変わっただとかそんなことでそれ以上は特に報告していなかったが,そんないつもの報告をしたら昼食に誘われた。出張ついでに家の近くまで行くから,なんでも好きなもの食べていいから,下に降りてきなさいと言われた。もちろん職場の人に会うのは気が引ける。

その前の日の夜,同じ課の同僚たちが訪ねてきてくれた。もちろんこれも気が引けたが,ホルモン鍋ということもあって勇気を奮って外にでる。仕事が残っているにも関わらず飲みに連れ出されたいつもの夜という感じがした。しかしかつて感じた緊張がなかったのは,彼らといることに私が緊張を感じなくなったからかもしれない。いつごろ子供が欲しいか,いつ結婚するか,どんな車が欲しいか,いつまでにゴルフで120切れるようにするか,そんないつもどおりの話があった。それすらもありがたく,むしろそれ以前にどんな話なら楽しかったかふと考えようとするも情けない空振りをして,その瞬間が幸せに思えた。ひたすらずる休みだ,休みを楽しんでやがる旅行にでもどこでも行きやがれと言われながら食べる鍋は悪くなかった。ただその日の昼,産業医面談のため出社した時に新入社員時代の教育責任者に会ったことがどこかで引っかかった。

この時を振り返りながら玉露を淹れて改めてその風味に驚くけどある夜学生時代の友人と会社の後輩とカラオケにいったときに皆で歌った曲が流れ,そのときのことを思い出す。そのときの何気ない場面が突然蘇るとそれがさも意味があった瞬間のように思えるが別にただひたすら飲んだあとにくるりを歌っただけではないかとも思う。得てして自分を振り返るとき,起点にするのはこうした場面だったりするからたちが悪い。

そして部長を最寄りの駅まで迎えにいって,この殺人的な暑さが殺人的だということ,会社のみなさんは変わりないかということだったが,前者に対して返事が適当になるのはさておき,「部のみんなは頑張ってるんじゃないかなあ,でもよく働くねえ」と後者に答えられたとき力の入れどころがわからなくなった。オタクの早口のように地元の割烹居酒屋を案内し,上から2番目のランチを頼んだ。

この病気は説明が難しいこと,今こうして話したりしているけどダメな時は本当にダメだ,回復と復職は違う,だとかそんな話を一方的にしてしまうが部長はその話を聞くことで安心させようとしてくれた。かつて飲み会で,社会の,つまり相手がある物事のすべてはいかに相手を立てるかにその成否がかかっているのに自分ばかりを押し通すから何も物事が進まないと叱られたことには理があった。そして私の話の残弾が尽きたときに出された替えの弾倉は,人生において様々な機会があるけれど,普段は自分が自分について振り返る暇がないからその機会に気づかないけれど,その暇があるときに見つけた機会というのは転機だから大事にしたほうがよいと言われた。不思議とその言葉は腑に落ちて,いや実は自分は本当は作家とかライターとか,そういうのになりたかった,この会社でこんなことをやっている理由がわからなくなったときに方向がわからなくなったとなぜか話していた。それなら部をあげて応援する,完全回復して戻ってきてくれると信じていると言われ,食後のコーヒーがなくなったので水を飲みおしぼりで3度ほど指先を拭いてから部長を改札まで送った。

宙づりの状態は波がすさまじい。普通に歩けるときでも突然,何しようとしているのかわからなくなることがある。けれどこれだけ休み,そして薬を飲む中で回数が減ってきた。心が強い人なんて誰もいないが,ではどうして自分はこうなったかと探求心が自分に向くがそれが一番危ない。ここ数日でアニメ版エヴァをすべて観返し,返し刃で観返した「桐島,部活やめるってよ」にも同じような何かを見つけてしまった。このことは改めたいが,何より考えを筋道立てて説明できる気がしない。ただ不思議に思うのは,同僚だって部長だって私と同じように,くるりを歌った夜があるはずで,ではそこから今いるところに一本の線を引けないとき,今いるところをどのように説明しているのかということで,逆にそこにこそ今の出口みたいなものを見出さなければならないのだろうけど,残念ながら玉露も4煎目となるとただの渋さを感じるだけになってしまい,1時間近く集中力が持続したという記録をもって筆をおかざるを得ない。

バカンス

先日このブログを開設してから1年が経ったと通知が来て,当初あれだけ高らかに宣言したものを何一つ実現していなくて思わずほくそ笑んでしまった。そんなことより,ある一定の周期性にも気づいてしまった。どうやら6月に入ると精神衛生を明らかに悪化させてしまうということだ。

このブログも,思えば理不尽すぎる現状を何とか言葉で描くことで納得のいくものにしようと試みたことだ。あえてネットの海にボトルメールのように自分語りの駄文を流したのも,ただただ共感を求めてのことでしかなかったと思うと,どこかに自分と同じ境遇の人がいて,同じ悩みを抱えていて,自分がその人とつながり,自分の言葉でその人を助けることができると思っている時点で,とんだ思い上がりでしかなく,今すぐにでもそのときの自分にドロップキックしたくなるくらいである。

まあそんな思い上がりも細々と続け今に至るが,今月ついに体を壊してしまった。そして少々休むことを命じられた。

気分の浮き沈みが激しく,この文章を書いていても10分くらいただ座っているだけになっていたり,体に力が入らなくなったり,考えなんて全くまとまらなかったりする。今の職場のストレスは明らかに異常に思えてしまい(どこでもそうだろうけれど),そしてそろそろやばいかなと思っていたら案の定ある日華麗なるワンパンKOを食らってしまった。私の友人にボクシングをやっているやつがいるが,そいつに今度KO食らったときの感覚でも聞いてみたい。動かなくなった。

むしろ原因はストレスを引き金にして生じた考えに完全にとらわれてしまったことかもしれない。どうしてここに居るのか,ということが全くわからなくなっていた。

知らず知らずのうちに善悪の判断や生きる目的みたいなのを持っていて,意識するしないにかかわらずどこかでそれを支えにしているように思える。しかしそれらが少し疑わしいものに思えるような状況に置かれると,もしくは疑いのまなざしでそれらを観察してしまうと,その瞬間見えているのは風に舞う灰で,戦隊モノの最終回近くでよく見るように,かつてそこにあったものを思ってその灰をすくい握りしめることしかできなくなってしまう。しかしその場面は語り手視点の情景描写で,そこに居る当の本人からすれば何が起こってるかわかるはずもなく,なぜ灰がそこにあるのかすらわからないのではないか。

とにかく,そんなこんなで少しばかりではあるが休みが始まった。

現場時間 2

 ここにしばらく記事を書こうと思っても書けていなかったのは振り返れば適度に日常に追われていたからだとわかる。毎朝与えられた仕事をこなし,新しいことを知り,そして何かに貢献している感じを味わえて,仕事しているという満足感をもてていたからだろう。現場から離れて早くも2カ月が経ち,何に悩み,どんなことに傷つき,そして何を面白いと感じていたかは少しずつ忘れていっている。それらは今の日常のなかになかったものとしてたまに湧き上がるに過ぎない。

 昼食は雑居ビルの2階にある海鮮居酒屋の寿司セットや,大通りにあるゴルフ用品を扱うビルの地下に入る垢ぬけた割烹の日替わり定食が定番になった。それなりのオフィス街なので,帰り際に一杯ひっかけたくなるような立ち飲み居酒屋や窓にメニューを書いているような南欧バルとかがやってるランチとかも気になるのだが,それらには目もくれない。いつもの店に行きいつものを頼む,という諸先輩たちが一緒である以上,それを乱すことは許されない。選択肢として残り続ける限りそれらの店は魅力を失わないのではないか。

 暖かい食事に最初は感動したものだった。食事をしているときに,熱い,冷たいという感覚を意識するように自然となっている。お味噌汁が唇に触れたときに味噌の香りを感じられるか,一気に流し込んでしまえるか,温度という視点からその日の食事を見るようになった。冷えた味噌汁や味噌汁の煮つけを作るたびに現場ではよく怒られたが,もう怒られなくなっても習慣は残っている。

 かつて海外の小学校にいたとき,食事の時間は憂鬱だった。周りはビリビリのアルミホイルに包まれたハムの薄いサンドイッチを食べているのに,私は母がにぎってくれたおにぎりを食べていた。もちろんおにぎりなんて得体のしれないものを現地の小学校低学年の同級生たちが見過ごすことはなく,合うことのない目線を感じないことはなかった。

 食堂では50円程度で日替わりポタージュが飲めた。思えばきちんと野菜から調理していたので,しっかりした食堂だったと思う。ありつくには傷やくぼみに欠かないアルミの器をもって列に並ばないといけない。そして一つ上の学年の担任をしている大柄の先生が寸胴からその器にポタージュを注ぎ,必ず「ありがとう先生」といわないといけないルールがあった。

 慣れてしまえばどうということのない儀式なのだが,当時の私は,並ぶときに私に注がれる今にも本性を暴いてやろうとたくらむ視線や,当然のように列を抜かそうとしてくる上級生がいたこともあって,憂鬱だった。さらに私の食べるおにぎりも相まって,毎日決まった時間に行われる,同じ筋書きの出し物の出演者にさせられているような気がした。

 ただそのポタージュは,すべての子供は猫舌だという配慮のおかげなのか,いつ飲んでも適温だった。口に入るとどんなときでも暖かさを感じることができて,このことはこれら汁物の満たすべき本来の役割をきちんと心得ているように思えた。

 ここに昔のことを懐かしみ脚色しながら書いているのは,今の日常がどんどんと速度を上げて,日常を楽しもうとする自分を振り落とそうとするその本性を明かしてきたからだ。知らないことは際限なく湧いてきて,目印だった締め切りは引きすぎた蛍光ペンのようにその役割を果たさなくなってきた。目的は忘れ去られ,習慣によって体を動かすことを強いられる。アドバイスは口調を強め,まだ来たばかりなのにはもうこれだけいるのにに変わる。そのとき日常に息継ぎの場所がなくなっていることを感じ,息継ぎを試みるほどにどんどんと沈んでいくように感じられる。

 感動した昼の食事もいつしか定番として感動を欠いていき,ランチの話題も仕事の話の多さに気づくようになってきた。そして味噌汁を飲んだところで感じるのは塩分を多くとりすぎているとか野菜が足りないとかで,遅れないように,でも待たせないように食べないといけないという駆け引きの中にいることは忘れてはならなかったはずだと反省させられる。

 どこにいてもこうして,今いるところから一歩引いて,それを自分が楽しいと感じる話に還元することしか楽しみを感じない以上,「ここではないどこか」を探そうとしてしまう以上,環境を変えたところで仕方がないのではないかとも思う。人の集まりをどうするかよりも,人の集まりがどうあるかにしか興味が持てなかった。そんなことを思いながら執務室に売りに来た弁当を買うと,何を揚げたのかわからない揚げ物と,ひなびたキャベツを強引にマヨネーズで生き返らせた付け合わせがあって,現場の弁当を食べながらサラメシを見て号泣していた先輩がいた話を思い出した。その先輩と同じ場所に立っているのに忘れていたことを思うと,日常はあまりにそのスピードを上げてきていることに気づく。

現場時間 1

工事現場という特殊な環境から抜け出して、すでに1カ月近くが経とうとしている。その間旅に出てみたり、新しい職場の雰囲気や業務になれるように努力していた。

昨日、好天に襲われたので吉野に向かってみた。高校の修学旅行で行った以来の思い出の場所だが、また訪れることになるとは思わなかった。吉野中千本の大きな観光ホテルの小さな部屋にいて、一緒に修学旅行らしいことをしていた誰もが、また吉野という地名を聞くことになるとは思わなかっただろう。

山登り、というかそれはただ坂道を上るというほうが近かったのだが、歩みを進めるにつれて普段の生活では言葉にならなかったような考えがふつふつと湧いて出てきて、結果として1年半近くいた工事現場での生活に戻ってきた。

悲しいかな工事現場では筋立てというようなものはなく、ただ無限にあるかに思える時間がただ意識されるものになり、その中では何度も述べているように、過去の過ちや、努力の足りなさを何度も突きつけられるだけだったように思える。

今日はそんな現場にいる同じ事務系研修をしている後輩を訪ねてきた。やはり同じように、むしろそれ以上に悩んでいて、しかし自分には彼らを慰められるような言葉を持ち合わせていなかった。ありきたりな訓示を垂れることも、自分の受難と克服の物語を展開するのも何か違ったので、悔しいけれど相槌から一歩進んだようなところで自分やかつての上司の非道について大げさに語っていた。それでも少し話しすぎたように思うが、ではその場にいて語らないことを選択するほど自分の美学は人の痛みよりも勝っているようにも思えない。

しかし吉野山を上っていて、自分が過ごした現場での時間を思うとき、それはすでに何ら将来を予感させるものでもなく、また過去の後悔を呼び起こすものでもなく、その中で完結し、自律的に動く人たちがいた。そしてもちろんその中には毎日そこに通っていた自分もいるような気がして、二度と繰り返したいとも思わないが、ふと立ち入っても拒まれないような距離のところにそれらは現れているような気がした。だから安心してそのことを話すことができるようになったと思ったとき、もう工事現場での時間は終わり、自分には別の時間が流れ始めたことに気づいた。

事務的なもの

今日は同期水入らずで久々に飲み、いろいろと話したのだが、どうも皆似たような状況に置かれてるみたいだ。自分がいる現場はもう1か月もないうちに施主への引き渡しなのだが、その書類関係だとか、それにまつわる業務だとかに、情けないながら追われている。そして追い立てるものは業務量というより、聞きたいことを聞けるような状況にないことや、特殊な業務なのに十分なサポートを得られていないこと、何より誰も何をすべきかわかっていないことに起因することで、そのしわ寄せはいわゆる事務担当に来ている、というような状況だ。

事務、という言葉は非常に便利で、敬意をもって使うこともできれば、侮蔑の意味を込めて、もしくは話し手とは身分が違うことを強調して使われることもある。そして私はその言葉が自分に向けて使われるとき、どうも後者の、つまり身分が違うことを強調する上に侮蔑の言葉が潜むようなもの、として受け止めていた。ただそれは逆に事務的でないものについて考える機会をくれたともいえる。立場の違いを強調する場面においては、その相手側はすべて事務的なものを担当する人になるのではないだろうか、そんなことを考えてみるも、納得する説明は与えられない。

私はいわゆる官僚的なものをごまかすための志に潜む富国強兵的な熱量や、組織的な意思決定のような何かからできるだけ遠ざかり、何かを作る情熱の中にありたいと思っていた。だから国の行政を担おうとも、大企業や大組織の行政官になろうと思わず、あくまで何かを作るような作り手でありたいと思っていた。喫茶店のカウンターで横並びになった就活生の男女が就活テクニックや将来、仕事について語っているのを聞いている中でふと当時の就活を、苦戦した就活を思い返していた。今もう一度就職するとしたら、何がしたいだろうか。就職以外の道を選ぶ強さは俺にはなかっただろうし、今でも悔しいけれどないだろう。

話を戻して、しかしそこでの作ることとは、まだ見たことない難題への挑戦を意味していたのかもしれない。かつてバンドで曲を書いていた時や、サークルの劇のフライヤーを作っていた時などは、作り始める前に、明確な問題や不具合があった。その時の熱量というのは、まだ見たことないものそのものが出来上がる過程から引き出されるというより、まだ見たことないものはどうあるべきかを考え、そこから必要な手法を導き出すことから引き出されていたのかもしれない。すなわち、すでに作り方がわかったものを作り上げることほど、苦痛で、面白みに欠け、誰でもできるようなくだらないものはないように思えるのだ。

不思議な話で、そのとき、かつて遠ざけたものはまさに今欲しいものだったのではないかと思えてくる。遠ざかるために選んだものはあくまで遠ざかるためのものでしかなく、必ずしもそこに求めていたものがあるわけではなかった。かつて同意しなかった多くのものの真意を今になって知ったような気がして、至らなさや友たちに遅れた気持ちばかりが先走る。これはコンプレックスや過去の選択の後悔でなく、ただただ自分が至らなかったことへの悔しさと、その先に待ち受けるであろうものの重さへの、可能性の軋みに思える。

あと少しでこうした「ものづくり」の最前線から離れるという事実には、さみしさも期待もなく、かつて期待したものは、その最前線にはなかったということを改めて確認したという印象を抱くに過ぎない。ただきっと、離れたときにはじめて、それは「そこにあった」ことになるようにも思えるが、それはまた別の機会に述べられれば。遂行することも無く、ほぼ思うがままに執筆したが、翌朝読むに耐えられるものになっていれば幸いだ。

足場をばらす

今いる職場に配属になったときはまだ建物もなく、地面を掘り返していたのに、ついに建物の周りの足場がすべて解体された。

ここ最近の週末は(嬉しいことに)何かと予定を入れていたり、東京に戻ったりしていた。さすがに何もしない日がほしくなったので有休をもらい、今日一日たまりにたまった家事をしてから近所のジムに行った。週末の夕方過ぎに行くとたいてい埋まっているマシンもさすがに月曜の昼過ぎには使われていなかったので、初めてのメニューを取り入れたりしてみた。今、動作のたびに身体が軋むので効果があったのだろう。

一人暮らしをしてからそれなりの時間が経ったからか、思いついたことのうち自分ひとりでできることは、多少スケジュールに無理があってもそれを実現しようとしてしまうようになった。かつて家族と暮らしていたときは何かとルールが厳しく、外出するにも理由だとか、いつ帰るかとか、そんなことを報告しなくてはいけなかった。休みの日は好きな時間に起きて好きな時間に外出できる自由があることに今一度感謝しなくてはならない。そして今日はジムの帰りに飽きるほど餃子が食べたくなったので、部屋を整理し、一人で餃子を包み続けて1時間近く過ごしていた。

ここ最近多くの人と会うことができた。大学時代の友人や会社の同期や先輩、親族と、改めて多くの人に囲まれていることを実感し、私に時間を割いてくれる人々への感謝の念を新たにした。しかしそれ以上に、それがあまりに日常的でないことだからか、そうした楽しい時間が過ぎたあと、その過ぎた時間を埋めるかのようにして、頭の働かない時間がやってくるようになった。その時間は何をするにも段取りが悪く、計画も立たず、何もしないのが一番と思わせるようなものである。

こうした何もしない時間は、今まで何よりも嫌だった。なるべく一日を予定で埋めて、明日以降への投資と頑張っていたし、今でも何もすることがない状態よりも忙しく走り回っていたり、何かに手を取られていたりするほうが好きだ。今思えば迷走だったように思える多くのこともそのときは大真面目にやっていたのは、かつてむやみに暗がりを恐れたように、ひとえにこの空白への恐れだったのではないだろうか。

だから当初は健康のためと思ってやむなく通っていたジムだったが、ある日突然面白くなってきた。筋トレは自己流だし効率が悪いことは百も承知なのだけれど、それでも日に日に扱える重量が増えていく喜びがあったうえに、やるべきことが次々わいてくるからだった。その喜びは日々がなんのためにあるのかを教えてくれるからだったように今では思える。

ところがある日扱える重量は頭打ちになり、当然のようにそれ以上を扱おうとすると体を壊してしまうことがわかるところまで来てしまった。今までおろそかにしていた柔軟性の向上や体幹トレーニングに労力を割かないといけないことが明らかだった。期せずしてそれは予定やすべきことに追われるという当たり前だった日々に追いつけなくなり、何もしない時間が顔をのぞかせはじめたことを意識するようになったころだった。

知る限り、建物を建てるうえでは仮設という考え方が必ず出てくる。仮設足場、仮設クレーン、仮設鋼材といったように、いずれも必ず建設現場では見るものであるものの、最終的な建物には含まれないものばかりである。しかしこれらが効率的に運用されることこそが、プロジェクトの成否のカギを握るといわれるほどに重要であるとされている。事実仮設計画こそが工程の中でも鬼門となることが多く、その工程作成を担当できるようになるまではやはり相当な経験が必要だそうだ。

現場に鎮座していた巨大な仮設クレーンが解体され、さらには建物の外周を取り囲んでいた仮設足場が解体されたとき、プロジェクトも終盤に差し掛かり、その山場も超えたと誰もが感じる。そしてそこで使われていた足場の材料はまた次の現場へと運ばれ、またそこで足場を組みあげ、解体されてと繰り返される。建物の解体工事にも足場は使用されるので、ある建物の新築工事の際に足場を組み立てた職人さんがその建物の取り壊し工事の際の足場の組み立ても担当するということもあるそうだ。

今日包み続けた餃子だが、油と過熱時間が足りなかったからか、皮がくっついた上に水気を多く含みすぎてしまっていて、皿に盛った時には餃子の姿というよりも麻婆豆腐のそれに近かった。トレーニング後だったこともあってか、そのときふと現場事務所から最後の足場材を乗せたトラックがゲートを出ていくのを思い出したので、文章にしてみた。