書くこともなければ

何かを成し遂げようとしなければ一日はあまりに長い一方で,その何かが見え始めたときには一日は終わらんとしている。やる気があってもやりたいことがないこともあれば,やりたいことがあってもやる気がないこともある。この両者は大縄跳びのようにぐるぐると回っていて,ちょうどよいタイミングでその中に飛び込まないといけない。しかし実を得ようとする人は最初には飛び込まないから,最初に飛び込む正直者は大体馬鹿を見る。しかし本当の馬鹿であれば実を取ることは関係ないのかもしれない。誰もが同じ土俵で戦っているわけではない。しかし土俵に飛び込んだ以上は,得手不得手やストーリーがあろうと土俵の場で評価されなくてはならない。もしそれが,例えば1分間のタイピングの文字数だったとしても,誰かにとっては本当に大事で,また誰かにとっては本当にどうでもよいことなのに,では何ならばその人の一生がかかった時間の末に勝ち得た切符と呼ぶことができるのだろうか,人として生きてきたことを評価することができる圧倒的な尺度をどこかで求めてしまっているのではないか,そんなものがあるのだろうか。

時間には余裕のある生活をしている。時間に余裕のある生活があれば自分に好きなだけ時間を費やせるからよいではないかと思っていたが,そうはならない。時間の余裕はせわしなさの合間に見つかるもので,大河のように流れる時間の中に浮かんでいるのでは,その切れ目も見ることができない。流れを急にするものは何か。どんな急激な流れの中にいても顔色一つ変えないその強靭さは何か。激流を上る魚たちのうろこが光っている。抗うことを辞めれば一切は自由で,こだわりを捨てればどこにいても流れなんてない。

こんな達観したようなふりをしているほどに実社会から遠ざかっていく。見えざる手やらなんとやらは確実にいて,周りはどんどんと持ち場でそれらしいことをして,それらしくなっていく。時折自分とはただの友人関係にしかない異性が,自分の知らないところでそうしたことをしていたことを知った時の悲しさにも似たものが通り過ぎていく。自分が守っているものそのものをも飲み込んでいくようなエネルギーは,その人がその人たらんとしようと力んだ瞬間に発せられる。それは今まで無意識に行われるようなものだった気がする。ところがそこには先人たちが受け継いできた伝統や思いというものが紛れ込んでいた。読解力が上がるということは幸せな空想の中で眠らせておけばよかったものもたたき起こしてしまうことで,それはある日後ろから鋭い刃物をもって襲い掛かってくる。そして大事業や大成功と思っていたものはサークル的な駆け引きの産物でしかなく,実現されることのない歴史絵巻の中の自分を夢見ることすらも疑わしくなる中年時代がやってくる。誰もが気持ち悪いメッセージを後輩の女子に送ってしまう。傷つくことに慣れるほどに本当に傷つくことはしたくなくなるのだろう。そしてそのとき真にオリジナルなものはなく,自分がなりたくないと思った上司や,親や,先祖や,その敵が書いたであろうことをそのまま惜しげもなく繰り返すのかもしれない。そしてどうにもそれが気持ち悪いか否かと判定されるのは,その言葉の字義通りの意味ではなく,その言葉が発せられるに至ったストーリーこそが読み取れるかどうかなのではないかということで,つまり,こんな感じで適当に書いていたとしても,もし私がそこに至るまでのストーリーをきちんと読み手に伝えることができていたなら,読み解いたと大きく叫ばせることができたならそれは何をやっても気持ち悪くはないのだろうか。

一方でどうしようもない力でねじ伏せられたいと思うような欲求を否定することはできない。どうしてか気持ち悪いものにどうとでもされたいというような面も,気持ち悪いものを遠ざけたいと思うのと同じだけあるだろう。話している本人にしてみれば全く矛盾のない明快な人生理論も,はたから見ていると明白な矛盾を抱えているというのは死ぬほどあるということで,むしろ矛盾があるということを共有しあえる関係こそができるのであれば,それこそがかけがえのないということではないだろうか。いつまでも矛盾というか解決することのない悩みの周りをまわり続けて,同じ間違えばかりをしていてもそれでもそれだと言えるような力を得ることができればよいなあ。

時折思い出す

時折思い出すのは学生時代の冬に,本州の最北端を目指そうという無謀な思い付きから始まった旅行で出会った女性のことだ。冷え切った空気の中では対岸の北海道は手を伸ばせば届きそうなほどに近く見えて,むしろそれ以上を与えない厳しさがあったのを覚えている。雪の積もる漁船や防波堤に打ち付ける波の砕ける音と,その地を歌った演歌の記念碑から時折流れる豪奢なメロディは,それ以上に広がらない空間の奥行を彷彿とさせる緊張感に充ちていたように思う。

最北端という土地に惹かれてかこの地を訪れた文豪は多く,彼らと土地の小話を紹介する記念館が展望台の近くに建てられていた。そこの展示の内容をあまり覚えていないことから,展示そのものはごくありふれていたのだろう。文豪が愛用した椅子に腰掛けたり,文豪が囲んだ囲炉裏を仲間内で囲んでみて,追体験をしたということ以外何も感じないことを楽しんだのを記憶している。

しばらくするうちにその記念館の管理人とその娘と思しき人が出てきて,暖かいお茶を振る舞ってくれた。管理人は老婆というほどではないが,目の周りや手首には皺が深く刻まれていて,白髪染めでは隠し切れない年齢を感じさせる昔話めいた印象を覚えた。その比較においてか,もう一人は年齢を感じさせず,どこか同じ世代に属するのかもしれないと思わせるような女性だった。もちろん年齢は推定より遥かに上だっただろうが,どこか彼女にあった魅力に惹きつけられるようにしてか,我々はその二人との話を楽しんだ。おそらく緊張に充ちた空間の場違いさを共有できる数少ない共犯者のように思えたからだろう。緊張に充ちていたその土地は,若さや活力といったものと無縁の空間だったからだ。

私たちがどこからきて,どんな目的があって,何歳であるかという話になると,管理人は冗談めかして,彼女を嫁にもらってくれないかと我々に言った。売れ残った,行き遅れた,こんな田舎だから若い人もいない,というようなことを言って,優秀で若いあなたたちに連れて行ってもらったほうがよいというような話になった。優秀かどうかはさておき,みたいなことを言っては笑い,きっといい人がいるはずだ,お姉さんはきれいだし魅力的だから,とお茶を濁すようなことを言って記念館を後にしたような気がする。もちろんそれ以来,その記念館を訪れたことも無ければ,その後の生活においてその経験が話題に上ったことも無い。なんならその管理人と娘の顔すら詳細に思い出すことはできない。ただ不思議と,記念館で受けた印象だけは,思い出のフィルターを通して美化されたとはいえ,かろうじて記憶に残っていた。そして今,何故かその記憶が再構成されては現れる。あれほど閉ざされ,緊張に充ちた世界において,彼女は,何を考えて我々のようなものを迎えたのだろうか,という疑問が頭をよぎる。

劇場に行って,予告編の全く本筋と関係のないフレーズが,目的の映画そのものよりも印象的に思い出されることがある。こうしてまさに横にならんとしているときにも,外から救急車の音が聞こえる。誰かが倒れたのだろう。その誰かを車に載せて,車を運転して,診て,その誰かは生きるなり,死ぬなり,何らかの経験をしているのだろう。自分が自分の意図通りに読み解くことができる対象は少なく,対象は絡み合っている。一つ部品を外してみてもある対象が機能していたとして,ではその部品が当初から不要なものなのかどうかというのは,別の問題のように思えてきて,追究すべきことのように思えてきた。こうしたことに気づくのは,いつだってまとまった時間が無くなるということがわかった時であり,明日からの労働に備えなくてはいけない。

サンテミリオン

年が明けていた。年末も年始も休息にかこつけてひたすら食べて飲んで遊んでとしていて,その疲れが今になって身体の節々を締め付けているように思う。前かがみになると腹がつかえるようになった。腰掛けるときにも足の筋肉を意識するようになっていて,時間の重みを徐々に背負いこみはじめたように思う。

年末年始の話を少ししたい。

ミクシィフェイスブックが全盛だったころ(今でもきっとそうだろうけど),よく一年の総括と来年の抱負を書いていた。今それをやるのが少し気恥ずかしいのはこの先どうなるかが何となく見えているからだろう。崩壊しゆく祖国を一人で立て直すようなことを目標として掲げても,それは目標というよりは価値観の表明であり,それを実現するには小さなことを積み上げていくしかないということが今はわかってしまったと同時に,そうした小さなことを積み上げることに夢中になれる気力が自分にはないことに気づいてしまった。志を高く掲げる人たちをみてどこか遠い存在のように思えてしまうと同時に,まともに取り合わないようにどこかで見ないようにしていることに気づくが,まだ気づいているだけマシだろうと無理に納得させる。そうするほどに開いていった距離だとも言えなくはないけれど。

旧友たちと久々に会う楽しさと,気の知れた同僚と行く気晴らしのゴルフの楽しさの間に差があったとしても,楽しいことに変わりはない。話すことは尽きず,相手にわかってもらおうとしなくても会話が成立するような環境は心地が良い。年末年始はこうした楽しい時間と人たちに恵まれた。気づくのはそれはある程度の背景や考え方が共有されているから成立するということであり,こうした背景にあるものは話し合えばわかるということであったり,agree to disagreeというようなことであったり,知的好奇心の優越というようなものだろうか。

もし十年や二十年と経ったとき,果たしてこれらはそれでも私たちを結びつけてくれるのだろうか。かつて音楽番組があって皆がそれを見て,ロックといえばロックミュージシャンのアイコンがあり,バンドマンというと前が見えないくらい重たい前髪と折れそうなくらい細い身体の奴らがテレキャスをひっさげて歌っていた。そして今,彼らのような人はいなくなってしまった。いるのかもしれないが,私の周りにはいなくなってしまった。それに夢中になる人も,誰もが歌えるあの曲も,私の周りからなくなってしまったのだ。遠ざけたのだろうか。

年末は家族で過ごした。大晦日の夜,家族ですき焼きをしていた。昔は母の実家で一族が集まってやっていたのだが,祖父母の容態の悪化によってとうの昔に廃れてしまった。私がここ最近ワインをよく飲むということもあって,父親が飲みたいと押入れの奥で保管していたワインを開けて家族で飲んだ。

父はボルドーのワインが好きだと知っていたが,この年末の発見は,その好みはサンテミリオン地区のワインに絞られていることだった。そして年末も例外なくサンテミリオンメルロー主体のワインだった。どうしてか私もメルロー主体のワインを好んで手に取るのはこうした影響があるのかもしれない。スムースというかベクトルが内を向いている印象が好きなのだ。酒を交えて久々に家族で話すとやはり将来や来年以降どうするかという話になり,意図せずとも食卓にはどうしても力が入る。こうした力の入り方にどれほど自分が苦しんだかということが今ならある程度わかるが,かつてはそれが自然で,そうした大きな困難と一致団結が食卓を一つに結び付けていたのかもしれない。しかしてそのことは父がサンテミリオンを好む理由を何となく考えさせた。そして両親からは,年齢には抗えない衰えを感じるようになった。もう私も良い年齢になったということかもしれない。衰えは自分にも同じように生じているのだろう。

比較的年齢の近い同僚が,事務担当者の書類の提出の仕方がなっていないということにそこまでするかというほどに怒っていた。仲の良かった先輩との雑談は誰が役員に一番近いかという話ばかりになった。そうしたことに夢中になれない自分がいるが,夢中になるべきものを切り捨てていくうちに,この先の時間はただの消化試合としてしか現れなさそうな気がする。何度このことに言及しただろう。自分以外とは共有できない感情にしがみついても,自分すらにも無関心であろうとしても,さらにはその対立を読み解いたとしても,消化試合であることには変わりないのだとしたら。生きていて何が楽しいのか,という誰が言ったともわからない言葉に仕込まれた精巧な罠の恐ろしさを知る。

ギターを「ジャーン!」と鳴らして,かっこいいコード進行とかっこいい歌詞で歌を進めていくような人たちはどこにいったのか。今,それほどに心を動かすことができるような人たちはどんなことをしているのか。チェケラッチョやマジ感謝に代表されたヒップホッパーたちの姿も見えなくなった。当たり前のように私の中にあるイメージは,本来は常に修正されるべきものなのかもしれない。

惰性

今までは全くの白紙に向かったときに言葉や考えが溢れるように流れていたのに,今何かを書こうとしてみても,その余白ばかりが気になってしまって言葉が進みにくい。どうしてだろうか。

今年も残すところ少なく,せわしなさが目立つようになった。社会人になって,現場以外の職場で迎える初めての年末である。忘年会の季節がはじまり,朝にかすかながら酒臭さを残しながら出勤するような人が目立つようになってきた。二日酔いにもかかわらずそれを悟らせない人たちの芸には感服する。酒ばかり飲んで騒いでいるからダメなのだと断罪することはできるが,ではなになら良いのだろうか。そのことを考えるほどに自分の考えは問の段階から何も進んでいないことに驚く。憂うことと憂いてるようにみせることの簡単さにも驚く。

何も考えないようになっている。なりたくなかったのは思考停止の大人たちだったと常に思っていたが,それは思考というものを一面的にしか捉えていないということでもあった。若さから成しえた業だとも思う。かつて教育責任者の上司が何十年も生きているにも関わらず何もそのとき考える成長を感じさせなかったことに憤ったのを思い出す。何かを話そうとするとき,何かについての自分の意見を述べようとするとき,その思考の浅さに驚く。つまるところ何かを話すだとか,自分のオリジナリティだとかそういったものを述べることはできないということに気づかされる。個性なんてものがあっただろうか。

朝決まった時間に起きて,決まった電車に乗り,ある程度同じような食事を食べて家に帰り,適度に気になることをやって眠る。このような反復をしているうちに,何が本質的に自分に属することなのかと考えると,袋小路に入る。こうした反復から抜け出ることこそ恐ろしいことでもあれば,その中で気づいたら疲弊しきっていることも恐ろしく,すべては今すぐ実現には至らないけれど,蓋然性の高い将来から逆算して怯えることしかできない。そしてそれらから離れるために,そのことについて考えないようにするというのは,妥当な選択のように思えてきた。

何も考えず,目の前のことに集中していると,こうした苦労から解放されるような気がする。そしてそのとき気づくのは,語るべきこと,伝えるべきことなど何一つなかったのではないかという救いのような光は前から降り注いでいたということである。

創造的人生の期限について語っていたある映画について思い返すことがあった。曰く10年も満たないような短い期間しかない。私のそれは,もう終わってしまったのかもしれない。何も作っていないのに,何も産み出していないのに終わってしまったような気がする。もう何かをしようとも,しないことへの罪悪感にもとらわれることも無くなってきた。ではどうして,それでもこの記事を書こうとしているのかわからない。まだ終わっていないということかもしれないし,このときはじめて始まるものかもしれない。しかしそんなことすらも気に留めなくなっている。そんなことをどうして話すのか,考えるのか?

手塩

明らかに風邪をひいている。身体が熱を持ち,握力が失われているためペンを持つ手はぎこちなく,筆圧を感じることができない。そして時折そのまま席にいて倒れたくなるようなだるさに襲われる。ここまで体調を崩したのは,思えばしばらくぶりだ。しばらく風邪らしい風邪を引かなくなったのは,毎日の生活が安定していたからだろう。もちろん現場に配属になってすぐはとにかく風邪を引いては休んでいた。しかしそのうちに熱という感覚をすっかり忘れるほどに元気でいられた。だから堪えている。

ブリーチーズを近所の輸入食品店で買って,それをあてにしながら赤ボルドーを開けて飲んでいる。チーズにワインは鉄板のように言われているが,ものは選ぶ。ことさら白カビチーズと赤ワインは合わない。と,いっているような評論家の記事を一度読んで以来,どこかそうした組み合わせをするのを避けてしまっている。梅干しとうなぎがダメだとかいうのももしかするとこんな適当な話から始まったのかもしれない。合わないわけがないし,かといって違うと言えば違うかもしれない。自分の意見を持って,それに忠実に生きるとは簡単に言うけれど,こんなところから躓いている。

すっかり昼食は手前で作った弁当で済ませるようになった。ごはんはおにぎりにして持って行っているが,いろいろ試したがシンプルな塩むすびがやはり外さない。そして手間だけれど,手塩をつけて,きちんと手で握ったほうがよい。そんなに変わらないはずなのに,どうしてかラップ越しに握るのと,手で握るのでは味が全然違う。はてこれもどこかで聞いたことのあるような話につながっているような気がするが何だろう。

けれどこうした気の持ちようみたいなものは大事で,きっと本人もそんな考えずに言ったであろう言葉がふとした瞬間に思い出されたりする。それを受け取った時の第一印象みたいなものは残っていて,言われた言葉の前後の文脈だけなぜか明確になっているのに,その当のものが思い出せないなんてこともある。

心持ができていないときに,友人の金に糸目をつけずに遊んでいる話や,ふと自分は周りよりも特別だとほのめかすような発言を見ると,どこか悲しくなる。ただそれは受け取る側に準備ができていなかったからだ,と思いながらも,もし私が一生懸命働き,いろいろ勉強して,いろいろと試してみて,これこそ憧れの一本と思っていたワインを,なんの苦労も思い入れもなく買う人が現れ,振る舞われたらどう思うのだろう。このことは,ここ最近楽器を弾く機会が多くなる中で感じることでもある。小さな目標を一つひとつこなした先にあると思っている頂上を,いとも簡単に到達してしまえる人を目の当たりにしたのだとしたら,それでも平静でいられるだろうか。そこに至るまでの道が大切だとか,努力する過程がなかったら達成感もないというのは簡単であるが,もし地を這いながらでも進んでいる目の前で,いい車でトバしながら駆け上がっていく人を見たとしたら,それでも同じことを言えるかと思うと,どうもまだまだだと思えるのである。競争と比較の輪から抜け出せていない。ただ身体を回復させなくてはいけない。

囲いの中へ

日中はもっぱらポエムを書いているから,休んでいる間にやっていることとそんな変わらない。どうすれば働き方を変えることができるのか,どうすれば生産性を向上することができるのか。このことを議論するとき,多くの場合が個人の経験や,さらには仕事をするということへの価値観のようなものに自然と話がシフトしてしまうから,働き方そのものについて客観的に議論することは非常に難しい。そんなことを自分の席の周りの人たちが忙しそうに動き回る様子を見ながら考えて,適当なライターが書いたまとめ記事に毛の生えたようなレポートを調べてみて,そしてポエムを書き連ねる。しかしこういう作業は好きだ,いつまででも続けられる。できることならこうして何も生み出さない机上の空論をいくつも拵えて,それを並べて陶芸作品のように売っていきたい。確かな手触りの中で形を微妙に変えながら焼きあがったものは,その多くは使われていることすら鑑みられず生活の中に溶け込んでいく。

診察室に入るなり旧友に会ったかのような笑顔で私を出迎えてくれる医者は,高級時計をちらつかせながらもう少し様子を見ようかと言ってくれる。顔色がよくあまりにのびのびとしている私に,もう心配する必要はそこまでないでしょうと言ってくるのに,それでも薬を処方してくれるのは,陳腐ながら売人にクスリをねだる中毒者のような気分にさせてくれる。手軽な非日常体験だが,多くの出来事がこうした中毒とも依存ともいえるようなものをうまくごまかしているだけなのではないか。

と真理をついたとでも言いたげな開け広げな一般化と含ませたような言い方をしたのは,かつて工事現場に勤務していたときの上司に挨拶に行くからだった。いつしか工事現場というものは名前だけの実態のない存在になっていた。街の中に現れた箱のような仮囲いに掲げられた許可証の写しを見ることは習慣になったといえるが,その中のものについては,数字と契約書の窓から見えるだけだった。そして私はさらにそこから遠ざかっていた。展覧会で見かけた写真が切り取った,名前も場所も知らない街が突然目の前に現れたような気分になりつつ,仮囲いの扉を開けた。

なにせ私は工事現場では一番の頭脳派を自任していた。調べものや法令とか,そういった知恵的なものが必要になる場面にこそ私の真価はあると,トイレ掃除をしながらその自意識をそれとなく見せびらかしていた。決して現場の臨機応変の対応や責任者の決断といった偶発的なものに靡かない,確固とした体系の世界,いわば論理の世界にいるとでも思っていた。現場にいて,内勤を固持していた。しかし内勤に入ったときに責任者の決断や臨機応変の対応に焦がれるようになったのは,転向の実践だった。振り返るとあまりにおかしい。トイレ掃除をしたことを誇りに思い,現場的な何かを知ったつもりになり,時にはそのことにしがみつこうともしていた。現場で受けた傷や悩みはどこかで勝手に解決されたことになっていた。いつしか過去の経験を都合よく解釈することを当然のように思うようになった。説明さえしてしまえば別にその真偽は個人的な問題なのだからと言いながらも,扉から事務所に向かう階段は,かつて私がいつ怒鳴られるかわからない状況におびえつつ,サイズの合わない箒で毎朝掃いていたのと同じモデルだった。土埃にかすむ銀色の階段と,木目調の手すりは,その両者のミスマッチと同じように,実家に帰る時のような,私と私自身との微妙な距離感を思い出させた。

いつもより調子の良い表現が飛び出してくるのは,事務所の扉を開けたときに多くの人に暖かく迎えてもらえた感動が残っているからだ。天気がよかったというのもあるため,自分の単純さに改めて気づく。かつての上司は席を用意してくれて,ただ何ともない世間話をした。事務所のレイアウトがどうだ,私が導入を検討したウォーターサーバーは今も使っている,残業制度や時短はこんな感じでやっているというような話をして,私がろくろを回している間にはいろんなことが進んでいるということを実感する。そのとき,自分の経験を人に伝え,その人を変えようと試みることはあまりに傲慢で難しいという話は,文脈から切り離されてやけに輝いて思えた。

あまりに遊びが無くなっているという話になった。現実を想定の通りに実現しないといけないような潮流において,見えない何かと闘って現実と抗おうとすることを続けるのなら,倒れても仕方がないよなあというような話をして,弁論や理論の強さについて思いを馳せた。これらはいつか復権されるのだろうか。しかして復権はそのもののためにあるのか,それを用いるもののためにあるのか。力を抜けといわれて,ではどうやってと尋ね返す時点で,力を抜くことからは遥かに遠い地点にいる。もしすべてのことが体系化できるのなら,およそ考えうるものには答えが出ているだろう。それでもそれに満足できないと感じてしまうのなら,そこにはまだ遊びがあるのかもしれない。その遊びが無くなったとき,では私はどこに立っているのだろう。

囲いの中の世界は,やはりどこか現実離れしていた。今立っている場所と続いているはずの地面は座標軸で表現され,クレーンのアームはオペでもしているかのようにその地面に向かって伸びている。では医者は誰なのだろう。ふと高級時計をした主治医を思い出した。気づくのは私は問ばかり投げかけ,その答えや答えに至るまでの厳密さを一顧だにしていないということだ。だからポエムしか書けない。自分と違うものに対してその違いを正当化することはいくらでもできるだろうけれど,それに身をゆだねることはとても難しい。論述問題においては,必ず筆者の意見に反論しろといわれたことと,そのことはつながっている。反対は説明によっていくらでもできるが,それを受け入れることは説明とは何か違う原理が働いているような気がした。気がしただけだ。仮囲いを出るとき上司に「頑張れよ」といわれ,「それはうつ病者には禁句ですよ」と返したとき,たばこに火をつけながら返された笑顔の意味を考えるが,その時点でふりだしに戻りそうになったことに気づいて,音楽も聴かずに急ぎ足で市街地に向かった。

月曜日が祝日であるということのありがたさを味わっている。先週の平日は会社で働くことがどんなことか改めて思い出させてくれた。各地で話す同僚たちの声が何層にも重なって聞こえたり,自分の座っている様子を自分が客観的に見ていたりするような状態を感じたりと,時折危ない場面もあったが,乗り切ることができた。チームの一員である以上,チームが機能しなくならないようにする義務は果たさなくてはならない。義務の観点からしか構成員はいないのに,何故私はチームにそれ以上を求めていたのだろう。ドライに捉えてしまえば何も委縮する必要はない。あれほど乗るのが怖かったエレベーターに乗りながらそんなことを思ったりもした。かつて毎日一緒にランチを食べていた先輩たちとの間に見過ごしてしまうほどの距離を感じた瞬間があったが,それは私がチームに対して負う義務の種類が変わってしまったからだろう。きっとそうだろう。

指の震えは禅寺を出たときにある程度コントロールできるようになった。まだベースを弾いていいと言われているような気がしたから,この週末はライブに次ぐライブをしてきた。不思議なことに二日酔いの朝や大騒ぎした帰りの電車とかは,異常なくらい感覚が研ぎ澄まされているときがある。音,色や情景がスローモーションで通り過ぎていき,曲を聴けばどのパートも鮮明に聴こえ,次のフレーズまで見えてしまって仕方がないような状態がある。連日の音楽漬けのおかげで,かつてないほどにその状態にある。その副作用か,言葉が出てこなくなる。この記事を書こうとしていても,言葉が痞えて仕方がない。

この原因はこれまでにないほどの曲数を演奏したからだろう。打ち合わせもほとんどないままにステージに立ち,時には初見の曲をそれっぽく弾かなくてはならないセッションの舞台は,恐ろしいほどに神経をすり減らす。たった数曲でも集中力が持たないのに,諸事情によって何時間もステージに立ちっぱなしになってしまった。全てが終わった昨夜は高熱にうなされるときのように深く眠っては覚醒し,悶えてはまた眠るというような状態になっていた。きっと緊張の糸をずっと張っていたからだろう。もっと場数をこなせばそんなに緊張しなくて良いのに,とも思ったが,おそらくこれは緊張というよりも集中といったほうがよいかもしれない。そもそも責任があるのか不明だが,責任の所在が明らかでないとき,それを黙って見過ごすか,何とか切り分けて軟着陸させようとするかどちらかを取らなければならないのなら,私は後者を選んでしまうのだろう。そしてその試みは本当に集中力を要する。ところでそれはただ強迫観念のようなものに駆られて行ってしまうもので,賞賛を得るためではないと自分では思っている。結果としての賞賛よりも,楽なほうにきちんと流れるしなやかさで納得したいと思うのはないものねだりだろうか。

何はともあれ場数を踏んだことで,演奏に対して悩んでいたようなことや,もどかしさを抱えていた部分は少しずつほぐれて,新しい壁が見えてきたような達成感はある。このことは音楽の良さでもあり悪さでもあるのだが,言葉で伝えられず,ただ演奏をすることでしか伝えられない。文字通りふらふらになりながら客席に降りたところ,たまたま観に来てくれていたお客さんに一本のビール瓶を振る舞ってもらった。無意識に感謝の言葉が出て,疲れのあまりそのまま座り込んでしまったけれど,振り返ればこれこそが待ちわびていた瞬間だったのではないかと思える。その反動で今何も手につかないけれど,こうなった経緯だけは少しでも美化される前にここに残しておきたい。