蓄熱

京都の夏は暑い、と夏が近づくたびにいろいろな人に言われたが、そういいたくなる理由がものすごくよくわかる。本当に、本当に暑い。どうしてこんなに暑いのかわからない。

エアコンの効いた部屋で快適に過ごす、このことがどれほどの贅沢かがよくわかった。本設電気設置前の鉄とコンクリートの箱の中を少し歩くだけで、口の中が干上がる。仮設の巨大扇風機にも限界はあり、電池駆動のファンを搭載した空調服も時間とともに効果がなくなっていってしまう。

どうも熱がすぐに体から取り除かれない。十分な水分を摂り涼しいところで休んでも、翌日、翌々日と、熱で感じた疲労はなかなか抜けず、ずっとほてっている。

最近、肉体労働が増えてきた。型枠の中に生コンクリートがきちんと行き届くように木槌でベニヤ板をたたき続けたり、廃材をひたすら集めたりしている。段ボール箱も合計何箱運んだかわからない。身体を動かしているとお金をもらうこと、時間があることがどれだけ尊いかわかる。必要か必要でないかを勝手に身体が判断してくれる気がする。(もちろんそういってするべきことから逃げているというのはあるのだが)

だからだろうか、肉体労働をしていると余計なことを考えなくなってくる。運んだ荷物が組みあがっている場面、ゴミや無駄なものがなくなった場面に出くわすと、連帯感や高揚感を生々しく感じる。自分がいかに身体や一定の動作に従わせることから得られるものを軽視していたか。

それにしても何とかこの熱を取り除かなくては。