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やりそびれたこと

連休への気持ちが変わってしまったことに少し怖くなった。かつて長期休暇に入るとやることがなくて体調を悪くするといっていた人がいたが、それはあまりにばかげた発言に当時は思えた。私にはこれだけやりたいことがあるのに毎日仕事する生活をしていたのでは到底できない、やっとのことで得られた自由な時間なのに、どうしてそれをさもありがたくもないもののように言い切ってしまうのか。その話は1年前に聞いたものだったと思うが、いざ連休が終わろうとするとき、やりそびれたことの多さに苦しさ、息苦しさを少し感じていることに気づく。

やりたいことを絞ってしまえればいいものの、どれも楽しいと感じる限りは続けてしまう。例えば音楽だけでもトランペット、ベース、ピアノといろいろと手を出してみたがどれもそれぞれの面白さがあり、やっていて飽きない。ただどれもこれ以上の高みには今までとは違う努力を要することがわかるところまで来ている。そしてこうした課題は音楽以外の領域にもある。

3日間では、何もせずにいるには長すぎて、何かを目指して頑張るには短すぎるのだ。ところが万事そうなのではないか、やりたいことの優先順位をつけず、それぞれに計画を立てていないからそう感じるのであり、それらがあればたとえ1時間しか時間がなくともやりそびれることなどないのではないか、と閃いたから久々にここに来てみた。

 

 

仕事ももう慣れてしまい、かつてこのブログを開設したころとは比べ物にならないほど多くの業務を担当するようになった。もっとも同時に、その担当のうちに自分の能力や必要な技術も限定してしまうようになった。必要以上のことはしない、面倒な問題には自分から首を突っ込まない。組織として生きる以上仕方がないことであろうが、かつて仕事で気になることは何でも吸収してなんでもやってみようとしていたことを思うと、少し寂しくなるときもある。必要な知識は自分で勉強すればよい、必要な経験は自分の担当する中での経験を応用すればよい、かつては苦手だったこれらのことも、いざ古巣を離れて自分の好きなようにすればよいとなると、案外できるようになっていた。最初からうまくいかなくても何回かやるうちに慣れたのだろう。

職場での人間関係もまさに切り詰めていったものの一つだ。かつては同じ職場の人間である以上何とか仲良くしようと思っていた。私のことなので決して露骨に対立するような真似はしないが(不思議なことに嫌いな人間にはその態度を率直に表明できる人がいるそうだ)、今の職場の人間関係は決して最善のものとは思えない。この業界のいい点は、プロジェクト単位で人が入れ替わるため、どんだけ嫌な人間がいようとそのプロジェクト終了までの辛抱という点だ。そしてこの職場も竣工が間近に控えるからこそ、この微妙な距離はあと少ししか続かない。

 

先日職場の忘年会があった。どんな会でもそうであるように終始つまらないということはなく、我を忘れて笑う瞬間や渾身のジョークが決まった時の全能感を味わう瞬間は幾度となくあるのだが、終わってみると酔いとは違う疲労感に溢れていて、それはまさに同僚との会話の不在によるものだと一人になってわかった。

きっと人が集まった時にする会話なんてどこででも同じようなもので、目の前にいる人の下半身事情や、少し離れた席の上司の悪口がほとんどで、運悪く生贄に選ばれた人が不機嫌になるスイッチを全員で探る黒ひげ危機一髪が行われればよいほうだ。ただこれが1年前に見た風景と同じものが続いていると気づいたとき、仕事の進捗に反して、関係性は全く進捗がなかったことを見せつけられた。砂を食べているような気分になった。

私を尻目に当の本人たちはまさにその景色の中を燃えるように生きていて、それはそれとして楽しんでいるのであった。この疲労感が仲間外れにされていることによるものであれば気は楽なのだが、その原因は一年前にした会話と仕事以外に話すこと、話せることがないということにあるように思えた。同じ話ばかりでつまらない、というあまりの単純さに笑える。

 

 

ふと楽器の練習をしていても、もっと有効に練習すべきなのではないかと思う瞬間がある。本を読んでいても、もっと読むべきものがあるのではないかと自問する瞬間がある。どれも仕事とも無関係の上、自分が好きでやっている以上誰に迷惑をかけることもない。ただすべての成果が自分にかかるものとわかると、中途半端になるほどに自分にうしろめたさを感じてしまう。(むしろ仕事終わりだと、息抜きとわかるからどれだけ非効率でも自分にうしろめたさ感じることはなく、そのあたりの自分の自動調整機能が少々悔しい。)そしてこの時間にして、3連休の間少しずつたまっていったうしろめたさが首あたりまで来てしまったため、今せっせとここで言い訳をして明日を健やかな気持ちで迎えようとしているのだ。

けれどもこうしてうしろめたさをうしろめたさのままに供養することを続けた先には、どうも先日の忘年会が待っているように思えてならない。