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事務的なもの

今日は同期水入らずで久々に飲み、いろいろと話したのだが、どうも皆似たような状況に置かれてるみたいだ。自分がいる現場はもう1か月もないうちに施主への引き渡しなのだが、その書類関係だとか、それにまつわる業務だとかに、情けないながら追われている。そして追い立てるものは業務量というより、聞きたいことを聞けるような状況にないことや、特殊な業務なのに十分なサポートを得られていないこと、何より誰も何をすべきかわかっていないことに起因することで、そのしわ寄せはいわゆる事務担当に来ている、というような状況だ。

事務、という言葉は非常に便利で、敬意をもって使うこともできれば、侮蔑の意味を込めて、もしくは話し手とは身分が違うことを強調して使われることもある。そして私はその言葉が自分に向けて使われるとき、どうも後者の、つまり身分が違うことを強調する上に侮蔑の言葉が潜むようなもの、として受け止めていた。ただそれは逆に事務的でないものについて考える機会をくれたともいえる。立場の違いを強調する場面においては、その相手側はすべて事務的なものを担当する人になるのではないだろうか、そんなことを考えてみるも、納得する説明は与えられない。

私はいわゆる官僚的なものをごまかすための志に潜む富国強兵的な熱量や、組織的な意思決定のような何かからできるだけ遠ざかり、何かを作る情熱の中にありたいと思っていた。だから国の行政を担おうとも、大企業や大組織の行政官になろうと思わず、あくまで何かを作るような作り手でありたいと思っていた。喫茶店のカウンターで横並びになった就活生の男女が就活テクニックや将来、仕事について語っているのを聞いている中でふと当時の就活を、苦戦した就活を思い返していた。今もう一度就職するとしたら、何がしたいだろうか。就職以外の道を選ぶ強さは俺にはなかっただろうし、今でも悔しいけれどないだろう。

話を戻して、しかしそこでの作ることとは、まだ見たことない難題への挑戦を意味していたのかもしれない。かつてバンドで曲を書いていた時や、サークルの劇のフライヤーを作っていた時などは、作り始める前に、明確な問題や不具合があった。その時の熱量というのは、まだ見たことないものそのものが出来上がる過程から引き出されるというより、まだ見たことないものはどうあるべきかを考え、そこから必要な手法を導き出すことから引き出されていたのかもしれない。すなわち、すでに作り方がわかったものを作り上げることほど、苦痛で、面白みに欠け、誰でもできるようなくだらないものはないように思えるのだ。

不思議な話で、そのとき、かつて遠ざけたものはまさに今欲しいものだったのではないかと思えてくる。遠ざかるために選んだものはあくまで遠ざかるためのものでしかなく、必ずしもそこに求めていたものがあるわけではなかった。かつて同意しなかった多くのものの真意を今になって知ったような気がして、至らなさや友たちに遅れた気持ちばかりが先走る。これはコンプレックスや過去の選択の後悔でなく、ただただ自分が至らなかったことへの悔しさと、その先に待ち受けるであろうものの重さへの、可能性の軋みに思える。

あと少しでこうした「ものづくり」の最前線から離れるという事実には、さみしさも期待もなく、かつて期待したものは、その最前線にはなかったということを改めて確認したという印象を抱くに過ぎない。ただきっと、離れたときにはじめて、それは「そこにあった」ことになるようにも思えるが、それはまた別の機会に述べられれば。遂行することも無く、ほぼ思うがままに執筆したが、翌朝読むに耐えられるものになっていれば幸いだ。