現場時間 2

 ここにしばらく記事を書こうと思っても書けていなかったのは振り返れば適度に日常に追われていたからだとわかる。毎朝与えられた仕事をこなし,新しいことを知り,そして何かに貢献している感じを味わえて,仕事しているという満足感をもてていたからだろう。現場から離れて早くも2カ月が経ち,何に悩み,どんなことに傷つき,そして何を面白いと感じていたかは少しずつ忘れていっている。それらは今の日常のなかになかったものとしてたまに湧き上がるに過ぎない。

 昼食は雑居ビルの2階にある海鮮居酒屋の寿司セットや,大通りにあるゴルフ用品を扱うビルの地下に入る垢ぬけた割烹の日替わり定食が定番になった。それなりのオフィス街なので,帰り際に一杯ひっかけたくなるような立ち飲み居酒屋や窓にメニューを書いているような南欧バルとかがやってるランチとかも気になるのだが,それらには目もくれない。いつもの店に行きいつものを頼む,という諸先輩たちが一緒である以上,それを乱すことは許されない。選択肢として残り続ける限りそれらの店は魅力を失わないのではないか。

 暖かい食事に最初は感動したものだった。食事をしているときに,熱い,冷たいという感覚を意識するように自然となっている。お味噌汁が唇に触れたときに味噌の香りを感じられるか,一気に流し込んでしまえるか,温度という視点からその日の食事を見るようになった。冷えた味噌汁や味噌汁の煮つけを作るたびに現場ではよく怒られたが,もう怒られなくなっても習慣は残っている。

 かつて海外の小学校にいたとき,食事の時間は憂鬱だった。周りはビリビリのアルミホイルに包まれたハムの薄いサンドイッチを食べているのに,私は母がにぎってくれたおにぎりを食べていた。もちろんおにぎりなんて得体のしれないものを現地の小学校低学年の同級生たちが見過ごすことはなく,合うことのない目線を感じないことはなかった。

 食堂では50円程度で日替わりポタージュが飲めた。思えばきちんと野菜から調理していたので,しっかりした食堂だったと思う。ありつくには傷やくぼみに欠かないアルミの器をもって列に並ばないといけない。そして一つ上の学年の担任をしている大柄の先生が寸胴からその器にポタージュを注ぎ,必ず「ありがとう先生」といわないといけないルールがあった。

 慣れてしまえばどうということのない儀式なのだが,当時の私は,並ぶときに私に注がれる今にも本性を暴いてやろうとたくらむ視線や,当然のように列を抜かそうとしてくる上級生がいたこともあって,憂鬱だった。さらに私の食べるおにぎりも相まって,毎日決まった時間に行われる,同じ筋書きの出し物の出演者にさせられているような気がした。

 ただそのポタージュは,すべての子供は猫舌だという配慮のおかげなのか,いつ飲んでも適温だった。口に入るとどんなときでも暖かさを感じることができて,このことはこれら汁物の満たすべき本来の役割をきちんと心得ているように思えた。

 ここに昔のことを懐かしみ脚色しながら書いているのは,今の日常がどんどんと速度を上げて,日常を楽しもうとする自分を振り落とそうとするその本性を明かしてきたからだ。知らないことは際限なく湧いてきて,目印だった締め切りは引きすぎた蛍光ペンのようにその役割を果たさなくなってきた。目的は忘れ去られ,習慣によって体を動かすことを強いられる。アドバイスは口調を強め,まだ来たばかりなのにはもうこれだけいるのにに変わる。そのとき日常に息継ぎの場所がなくなっていることを感じ,息継ぎを試みるほどにどんどんと沈んでいくように感じられる。

 感動した昼の食事もいつしか定番として感動を欠いていき,ランチの話題も仕事の話の多さに気づくようになってきた。そして味噌汁を飲んだところで感じるのは塩分を多くとりすぎているとか野菜が足りないとかで,遅れないように,でも待たせないように食べないといけないという駆け引きの中にいることは忘れてはならなかったはずだと反省させられる。

 どこにいてもこうして,今いるところから一歩引いて,それを自分が楽しいと感じる話に還元することしか楽しみを感じない以上,「ここではないどこか」を探そうとしてしまう以上,環境を変えたところで仕方がないのではないかとも思う。人の集まりをどうするかよりも,人の集まりがどうあるかにしか興味が持てなかった。そんなことを思いながら執務室に売りに来た弁当を買うと,何を揚げたのかわからない揚げ物と,ひなびたキャベツを強引にマヨネーズで生き返らせた付け合わせがあって,現場の弁当を食べながらサラメシを見て号泣していた先輩がいた話を思い出した。その先輩と同じ場所に立っているのに忘れていたことを思うと,日常はあまりにそのスピードを上げてきていることに気づく。