避難訓練

長めの夏休みだというのに夏らしさを微塵たりとも感じないのは,能動的に夏を探してないからだろう。しかし夏らしさを探しに行こうとしたところで,いわゆる「夏らしさ」にはどこか満足できず,何気ない場面,例えばいつも使う駅の一場面,を自分の拵えた「夏らしさ」の額縁の中に入れて初めて心の平穏を得られるように思える。しかしそれには,私が絞り出した「夏らしさ」を受け取ってくれる人,評価してくれる人が必要だという問題が含まれる。

自分の作ったものに自分で満足するという能力があればそもそも長めの夏休みなどもらう必要もなかった。どうしても自分の作ったものが誰かに届くということ,それによって誰かを動かした,自分を認めさせたという実績が欲しかった。そう,欲しかったのはその実績であり,「何がしたい?」と問われれば,実績を集めるスタンプラリーこそがその答えだった。旅行先に行って名所を写真に収めることを使命として楽しむ観光客と何も変わらず,しかしそうした振る舞いにどこか冷笑的だったのはつまるところそこに自分を見ていたからだろう。

誰かの振る舞いに対して冷笑的な立場をとるということはそれ自体が一種の自分の立場の表明なのだろう。子供のころからよくマッサージの腕を褒められた。専門家ではないにせよ身体の緊張があるところはそれなりにわかる。緊張した場所をその緊張の度合いに応じた力で押してやると,徐々にこわばりが取り除けるのだ。いつからか人が話すとき,その論のこわばり,緊張しているところをみつけたら,そこを押し返してやると,論調は緊張はほぐれるものの,得てして真面目な相手からは揚げ足取り,不真面目そして皮肉屋として常識を疑われる。雨の昼下がりに,アイスクリーム屋の店主を怒らせることをゲームと呼んで興じる恋人のことを歌った曲があったが,どこかそれに憧れていたのかもしれない。冷笑的な自分,人が頑張るようなところでは頑張らず,人が頑張るものを見てはそれは小馬鹿にするような自分に自分を見出していた。もちろんそれも,別の人との関係の中で得たものではあったが。

先月東京に戻り,家族,友人,同僚といった,お世話になった人たちに会う中で,この会社に残ることを決めた。

日曜日が去り月曜日がやってくるのは恐ろしいが,それよりも恐ろしいのはこの恐怖と解決の反復が少なくともあと千回は続くことだった。一過性の不安は対策を講じることで乗り越えられるものになるが,持続を原因とする不安は,対策を講じたところでそれを煽り立てるものにしかならない。およそ40年,満杯のバケツを頭にのせて村中を歩き回るような労働に時間を捧げることが続くと思われたとき,約束された安定的な将来を形作る時間は,栄光に向かって走る線路を切り開いていく過程としては理解できなかった。

そこに一歩ずつ踏み込んでいくことは,前日から続いている避難訓練を明日も継続することを決定することのように思えた。訓練は,目的とシナリオとそれに沿ったロジがある限り終わらない,いや,目的が達成されない限り終わらない。終わりを決定しない限り改善を求められ,都度行われる改善に着目すれば前進しているかのように思える。ただ対策を講じる限り,翌日も翌々日も続いていく。では終わりはどこか?日常はいつ取り戻せるのか?

そもそもの避難訓練を何らかの大きな力で終わらせることはできる。本当に非常事態が発生した,誰かが王様は裸といった,このように終結を外に求めることもできるが,主体的に今すぐ取りうる選択肢として,そもそもその場から立ち去るというものがある。そして先月の自分にとって勤務する職場を去るとは,倒れたことによる条件反射としてよりも,こうした救済の手段のように思えた。

果たしてそれは救済になりうるのか。ところで人と話す機会が減ったからか詩的な気分は平均して高いのだが,平日の散歩の後にカフェに入ると,その一層の高揚を感じる。携帯を確認してもニュースの通知しかなく,顔を知っている人たちはどこにもいない。ガラケースマホを交互に見るスーツの人がいて,母親と同い年くらいの女性が何人かで話していたりする。そして稀に見かける若い人は学生らしい目の輝きをもった人たちで,残念ながら自分のような人は,どこにもいない。人々の集まりから完全に切り離されたような感じがするからだろう,自分がいなくても世界が回っている場面はこんな身近に広がっている。

ニュースには勤めている会社に関するものもあった。休んでいるときに多くの人が,その人が倒れたら回らないような組織は,きちんと機能していないという趣旨のことを言ってくれた。私が倒れた翌日,休職する旨を伝えるためいつもの時間に出勤すると,私の机の上には一つも未決の書類がなかった。すべて「フォロー」してくれていたのだった。「君のところはチームとしてよく働く」といっていた営業課長の言葉の意味をこのとき理解する。自分を持った個人の集まりと,組織によって役割を与えられた個人は,同じものを見ているようでいて鮮やかに食い違う。

そして喫茶店を出たところのエスカレーターの下にあるベンチには,歳も結構なおばあちゃんが浅く腰かけている。頻繁に彼女を見かけるので,何か用があってそこに居るというわけでもないだろう。居るのだ。ただこのとき,自分が逃れようとしていた不安はどこまででも,自分が自分を見出す限り影のように追ってくるのではないかと閃いた。閃きは得てして誤るけれど,靄が晴れるその一瞬だけにでも感謝したい。「私は?」

身体を鍛えたほうがよいという医者のすすめもあって,水泳をはじめた。すぐ疲れてしまうので水泳部だった同期にアドバイスをもらうと,どうやら体幹を使えていないらしい。出た,体幹。何をやっていても,結局ここに行きついてしまう。あらゆる運動において,体幹こそが競技者の本質を担っているのではないか。

夏季は市民プールの屋外50mプールが開放される。平日の夕方,西日が水の底まで届く中で,日に焼けた小学生の集団や筋肉質な高校生がそれぞれの夏休みを楽しむ中に,何日も髭をそっていない,腹もだらしなくたるんだおじさんとして交じるのはさすがに心に悪い。テレビが映した甲子園の高校球児の表情を思い出す。しかし水の中に入って距離やタイムのことを一度すべて忘れて,体幹を意識すると――幸いなことにコツが自分なりにつかめてきて,へその下とおしりに力を入れると,肩や股関節が胴体から切り離されたように自由になって,残された胴体こそが体幹と呼ぶべきものなのかもしれない――見落としていた身体との回路を回復しているような気になれる。これこそが夏らしさなのかもしれない。