The Goodbye Lookを巡って

今更ながらDonald Fagenの名盤The Nightflyをゆっくり聴く機会を持てて,ここ数週間このアルバムばかり聴いている。解説やうんちくはいくらでもあるだろうけれど,何より聴くほどに新しい発見がある。飽きないのだ。

ここ最近熱心になっていることがあって,コンガの演奏である。平日の午前中,生活リズムを整える意味も込めて音楽スタジオに通い,ただひたすらコンガを叩いている。今までパーカッション類にはほとんど触れてこなかったが,まずそのシンプルさゆえに広がる奥深さにはただ驚くばかりである。ただ叩くという誰でも跨ぐことのできる敷居なのに,どうしてこれほどまで多彩な音色が表現できるのか,アクセントを置く位置によってそのフレーズの印象がここまで大きく変わるのはどうしてか,疑問は尽きることはなく,そのすべてを試してみたくなる。打楽器を前にして,こんな無邪気さがまだ自分に残っていたのかという喜びがこみ上げる。何のためにもならない,人前で人を感動させられることができるような演奏になるには程遠いのに,それでも毎日あれやこれやと試すことそれ自体の面白さを思い出させてくれる。

その面白さは昔知っていたものだった,とか言えると良いのだが,残念ながら自分はそうではなかった。何者かになろうと最短ルートで,最高の成果を挙げることばかり考えてきていて,そのことも疑わなかった。そして自分で自分をほめても良いのではと慢心した瞬間あまりに虚しくなり,癒そうとあがくほどに余計苦しくなる中で,初めて見えてきた感覚だった。ただこの面白さも,生きるのに精いっぱいだと忘れられてしまう。試すことを強いられても,試すことばかりしていても,その感覚はやってこない。一度囚われたらそれ以外のことなどどうでもよくなってしまう上にこのように気まぐれなのだから,あまりにたちが悪い。それでも,思い出せるのだ。

これまでずっとエレキベースを弾いてきた。モテるともてはやされる前から弾き始め,未だに弾いてるのかよと言われるこの頃になっても続けている。長い間やっているからかその魅力を改めて伝えるのは難しいけれど,これも同じく飽きがなかなか来ない楽器だと思っている。同じセッティングで,同じフレーズを同じリズムで弾くように言われても,弾く人の数だけその音楽があるから,その終わりのない厳しさにどこか意固地になっているのかもしれない。あるいはもっと光の当たるなにかに持ち替えた人たちを見て,さらにはその人たちが放つ光に憧れて一度は捨てたからこその諦めか。楽器を弾いてサマになってたやつらはみんな,もう楽器を弾いてない。そしてその光をもう一度信じることはできない。

手の震えは一層厳しくなり,ベースで音を出すということすらこの先難しくなるのではないかという嫌な予感がしている。指摘されるたびに言っているが,人の手はもともと震えている。試しに腕を伸ばして指先に薄い紙でもなんでも乗せてみてほしい,少しは震えているだろう。その震えの幅がどうしてか私は人より大きく,さらには神経の昂りと非常に連動しやすい。だからライブや人前で弾くとき,その震えは大きくなる。演奏の最中で緊張がほぐれると普通になることが多かったのだが,最近はそうはいかない。大きな震えが常にやってきていて,さらにはその影響か,筋肉がこわばって思うように動かなくなってきてしまった。何か大きな病気の前兆でないと良いのだが。

このしがないサラリーマン人生でも音楽ができる,時間とともに演奏が成熟できればその幸せで十分だろうなんて思っていた時期には,こんな予感は微塵もなかった。「ルールが変わってしまったのだ。」不老不死になったとしても,その記憶は一般的な老年に差し掛かる前で止まっているとしたおとぎ話の一説を思い出す。きっと難しい本も読めなくなるのだろう,好奇心もかつてより衰え,迷ったら動かないようになっている。「そして何が起こるかは知っている。」

旅行についてもそうだ,ある時から旅行から得られた感動を得られなくなっていた。どこに行っても物足りなさをどこか感じてしまい,それを追い求めるばかり帰路についてふと後悔するようなことがある。その後悔が次の目的地への切符になっていることは多いのだが,初めて一人で旅をしたときの,自由だとか冒険だとか恐れだとかそういうのが塊になってぶつかってきた時の衝撃は,もう得られないのだろうと懐かしんだりもする。

 そしてそれは旅行がすっかり思索的な意味合いを帯びてしまった今,この最後のあがきとして今から旅行に出ようと思うことにつながる。難しい顔をしてなんか考えて書いてみて喜ぶのなら自室でもできるが,どうしてそれをわざわざ別のところでするのだろう。観光地を観光地として回り切れない幼さと,それでも行ったなら無駄にしたくないという貧乏根性の間に挟まっているのに,手が届かない。

およそ一年前,学生時代の友人と温泉街に行って深夜にも関わらずビール瓶を片手に河川敷を徘徊した時のことを思い出す。全ての時間を一緒に過ごしたというよりは適切な距離を保っていた仲ではあったが,冷たい川に足を浸しながらビールでも飲んで昔話をしていると,昔の馬鹿話や仕事の愚痴や叶わなかった夢だとか,そういったものが自然と言葉に結びついて,かたくなになっていたものがほぐれていったのを覚えている。それは社会人になりたての,あの規則のがんじがらめの中から一瞬だけでも脱獄してやるとでもいうような強い意志のなせる業だったのかもしれない。しかしその土地と,場面と,そのとき流れていた風だとか川のせせらぎだとか,そういうのがまとまってやってくれたことなのかもしれない。それ以来,ある場所でのみ出てくる言葉のようなものを探しているような気がする。

今まで自分に当たり前のようにあったものが,ある日なくなってしまうのは,あまりに恐ろしい。だからコンガを始めた。今まで当たり前にあったものは自分以上に思い入れがあって,たとえ形を変えてでも,それにしがみつくことしか自分を保てない。みじめかもしれない。だから時代を超えて人々に愛されるもの,それが場所であれ音楽であれなんであれ,その力に憧れる。そしてそれらは得てしてシンプルなのかもしれない。これらはどこか包容力があって,こちらの下手なまとまらない話も楽しく耳を傾けてくれる。そしてそこから去るとき少し満たされないのは,去り際にそんな表情を見せてくれるからであろう。