月曜日が祝日であるということのありがたさを味わっている。先週の平日は会社で働くことがどんなことか改めて思い出させてくれた。各地で話す同僚たちの声が何層にも重なって聞こえたり,自分の座っている様子を自分が客観的に見ていたりするような状態を感じたりと,時折危ない場面もあったが,乗り切ることができた。チームの一員である以上,チームが機能しなくならないようにする義務は果たさなくてはならない。義務の観点からしか構成員はいないのに,何故私はチームにそれ以上を求めていたのだろう。ドライに捉えてしまえば何も委縮する必要はない。あれほど乗るのが怖かったエレベーターに乗りながらそんなことを思ったりもした。かつて毎日一緒にランチを食べていた先輩たちとの間に見過ごしてしまうほどの距離を感じた瞬間があったが,それは私がチームに対して負う義務の種類が変わってしまったからだろう。きっとそうだろう。

指の震えは禅寺を出たときにある程度コントロールできるようになった。まだベースを弾いていいと言われているような気がしたから,この週末はライブに次ぐライブをしてきた。不思議なことに二日酔いの朝や大騒ぎした帰りの電車とかは,異常なくらい感覚が研ぎ澄まされているときがある。音,色や情景がスローモーションで通り過ぎていき,曲を聴けばどのパートも鮮明に聴こえ,次のフレーズまで見えてしまって仕方がないような状態がある。連日の音楽漬けのおかげで,かつてないほどにその状態にある。その副作用か,言葉が出てこなくなる。この記事を書こうとしていても,言葉が痞えて仕方がない。

この原因はこれまでにないほどの曲数を演奏したからだろう。打ち合わせもほとんどないままにステージに立ち,時には初見の曲をそれっぽく弾かなくてはならないセッションの舞台は,恐ろしいほどに神経をすり減らす。たった数曲でも集中力が持たないのに,諸事情によって何時間もステージに立ちっぱなしになってしまった。全てが終わった昨夜は高熱にうなされるときのように深く眠っては覚醒し,悶えてはまた眠るというような状態になっていた。きっと緊張の糸をずっと張っていたからだろう。もっと場数をこなせばそんなに緊張しなくて良いのに,とも思ったが,おそらくこれは緊張というよりも集中といったほうがよいかもしれない。そもそも責任があるのか不明だが,責任の所在が明らかでないとき,それを黙って見過ごすか,何とか切り分けて軟着陸させようとするかどちらかを取らなければならないのなら,私は後者を選んでしまうのだろう。そしてその試みは本当に集中力を要する。ところでそれはただ強迫観念のようなものに駆られて行ってしまうもので,賞賛を得るためではないと自分では思っている。結果としての賞賛よりも,楽なほうにきちんと流れるしなやかさで納得したいと思うのはないものねだりだろうか。

何はともあれ場数を踏んだことで,演奏に対して悩んでいたようなことや,もどかしさを抱えていた部分は少しずつほぐれて,新しい壁が見えてきたような達成感はある。このことは音楽の良さでもあり悪さでもあるのだが,言葉で伝えられず,ただ演奏をすることでしか伝えられない。文字通りふらふらになりながら客席に降りたところ,たまたま観に来てくれていたお客さんに一本のビール瓶を振る舞ってもらった。無意識に感謝の言葉が出て,疲れのあまりそのまま座り込んでしまったけれど,振り返ればこれこそが待ちわびていた瞬間だったのではないかと思える。その反動で今何も手につかないけれど,こうなった経緯だけは少しでも美化される前にここに残しておきたい。