手塩

明らかに風邪をひいている。身体が熱を持ち,握力が失われているためペンを持つ手はぎこちなく,筆圧を感じることができない。そして時折そのまま席にいて倒れたくなるようなだるさに襲われる。ここまで体調を崩したのは,思えばしばらくぶりだ。しばらく風邪らしい風邪を引かなくなったのは,毎日の生活が安定していたからだろう。もちろん現場に配属になってすぐはとにかく風邪を引いては休んでいた。しかしそのうちに熱という感覚をすっかり忘れるほどに元気でいられた。だから堪えている。

ブリーチーズを近所の輸入食品店で買って,それをあてにしながら赤ボルドーを開けて飲んでいる。チーズにワインは鉄板のように言われているが,ものは選ぶ。ことさら白カビチーズと赤ワインは合わない。と,いっているような評論家の記事を一度読んで以来,どこかそうした組み合わせをするのを避けてしまっている。梅干しとうなぎがダメだとかいうのももしかするとこんな適当な話から始まったのかもしれない。合わないわけがないし,かといって違うと言えば違うかもしれない。自分の意見を持って,それに忠実に生きるとは簡単に言うけれど,こんなところから躓いている。

すっかり昼食は手前で作った弁当で済ませるようになった。ごはんはおにぎりにして持って行っているが,いろいろ試したがシンプルな塩むすびがやはり外さない。そして手間だけれど,手塩をつけて,きちんと手で握ったほうがよい。そんなに変わらないはずなのに,どうしてかラップ越しに握るのと,手で握るのでは味が全然違う。はてこれもどこかで聞いたことのあるような話につながっているような気がするが何だろう。

けれどこうした気の持ちようみたいなものは大事で,きっと本人もそんな考えずに言ったであろう言葉がふとした瞬間に思い出されたりする。それを受け取った時の第一印象みたいなものは残っていて,言われた言葉の前後の文脈だけなぜか明確になっているのに,その当のものが思い出せないなんてこともある。

心持ができていないときに,友人の金に糸目をつけずに遊んでいる話や,ふと自分は周りよりも特別だとほのめかすような発言を見ると,どこか悲しくなる。ただそれは受け取る側に準備ができていなかったからだ,と思いながらも,もし私が一生懸命働き,いろいろ勉強して,いろいろと試してみて,これこそ憧れの一本と思っていたワインを,なんの苦労も思い入れもなく買う人が現れ,振る舞われたらどう思うのだろう。このことは,ここ最近楽器を弾く機会が多くなる中で感じることでもある。小さな目標を一つひとつこなした先にあると思っている頂上を,いとも簡単に到達してしまえる人を目の当たりにしたのだとしたら,それでも平静でいられるだろうか。そこに至るまでの道が大切だとか,努力する過程がなかったら達成感もないというのは簡単であるが,もし地を這いながらでも進んでいる目の前で,いい車でトバしながら駆け上がっていく人を見たとしたら,それでも同じことを言えるかと思うと,どうもまだまだだと思えるのである。競争と比較の輪から抜け出せていない。ただ身体を回復させなくてはいけない。