惰性

今までは全くの白紙に向かったときに言葉や考えが溢れるように流れていたのに,今何かを書こうとしてみても,その余白ばかりが気になってしまって言葉が進みにくい。どうしてだろうか。

今年も残すところ少なく,せわしなさが目立つようになった。社会人になって,現場以外の職場で迎える初めての年末である。忘年会の季節がはじまり,朝にかすかながら酒臭さを残しながら出勤するような人が目立つようになってきた。二日酔いにもかかわらずそれを悟らせない人たちの芸には感服する。酒ばかり飲んで騒いでいるからダメなのだと断罪することはできるが,ではなになら良いのだろうか。そのことを考えるほどに自分の考えは問の段階から何も進んでいないことに驚く。憂うことと憂いてるようにみせることの簡単さにも驚く。

何も考えないようになっている。なりたくなかったのは思考停止の大人たちだったと常に思っていたが,それは思考というものを一面的にしか捉えていないということでもあった。若さから成しえた業だとも思う。かつて教育責任者の上司が何十年も生きているにも関わらず何もそのとき考える成長を感じさせなかったことに憤ったのを思い出す。何かを話そうとするとき,何かについての自分の意見を述べようとするとき,その思考の浅さに驚く。つまるところ何かを話すだとか,自分のオリジナリティだとかそういったものを述べることはできないということに気づかされる。個性なんてものがあっただろうか。

朝決まった時間に起きて,決まった電車に乗り,ある程度同じような食事を食べて家に帰り,適度に気になることをやって眠る。このような反復をしているうちに,何が本質的に自分に属することなのかと考えると,袋小路に入る。こうした反復から抜け出ることこそ恐ろしいことでもあれば,その中で気づいたら疲弊しきっていることも恐ろしく,すべては今すぐ実現には至らないけれど,蓋然性の高い将来から逆算して怯えることしかできない。そしてそれらから離れるために,そのことについて考えないようにするというのは,妥当な選択のように思えてきた。

何も考えず,目の前のことに集中していると,こうした苦労から解放されるような気がする。そしてそのとき気づくのは,語るべきこと,伝えるべきことなど何一つなかったのではないかという救いのような光は前から降り注いでいたということである。

創造的人生の期限について語っていたある映画について思い返すことがあった。曰く10年も満たないような短い期間しかない。私のそれは,もう終わってしまったのかもしれない。何も作っていないのに,何も産み出していないのに終わってしまったような気がする。もう何かをしようとも,しないことへの罪悪感にもとらわれることも無くなってきた。ではどうして,それでもこの記事を書こうとしているのかわからない。まだ終わっていないということかもしれないし,このときはじめて始まるものかもしれない。しかしそんなことすらも気に留めなくなっている。そんなことをどうして話すのか,考えるのか?