それからの話

厳しかった風邪から回復した。そのときわかったのは自分はどれだけ空腹や酔いというものを無視して飯を流し込み,酒を飲んでいたかということだった。部屋にはすさまじいまでの食事の香りが溢れていた。空腹になってまず鼻に付いたのはそのやり場のない香りだった。余っていた食材の多くを捨ててしまった。絶品に思えた蛸とジャガイモのアヒージョも捨ててしまった。しかしまたホタテのバター炒めを作っている。ワインを開けて早く飲み切らなくてはと焦っている。どれだけ同じ過ちを繰り返すのか。

映画「リズと青い鳥」を見てからというものの本当に語るべきものがすべてなくなってしまったかのように思えた。そこで私の言おうとしたこと,言いたかったことはすべて言われつくしてしまったかのように思えた。追い打ちをかけたのは,中学生くらいの時から好きだったバンドの新しいアルバムがリリースされ,その作品が聞き始めた頃ではとても想像しなかったような地点に到達していたことがあった。さらには今年注目の自分よりも若いトラックメイカーたちのデビュー作品に出合い,私の問題意識を浮き彫りにするかのような完成度の作品(すなわち,自分のやろうとしていたことがすべてやられてしまったことでもあった)が世に放たれたこともあった。やっと問題意識を見つけたのに,別の人が突然やってきてすべてを刈り取っていってしまったということもあった。それが見つかったから問題意識が浮き彫りになったというほうが確かなのは承知している。

労働はもう特筆することもなく,淡々と続いている。復帰したときよりも担当業務が増えた。専門性が高いから参入障壁も高いとされているその業務も本質はチェスボクシングで,相手の意図をさも自分の意図のように解釈しつつそれが暴走をしないように牽制を怠らないことでしかない。ゴチレースであるともいえる。ある予算の枠の中で諸条件を鑑みつつその予算をオーバーしないようにアドバイスするのである。最大の違いはその失敗が直接自分には降りかからないというところにあるが,すでにその時点で組織労働者の論理に陥っている。

淡々と続く労働だけでなく,諸々に対してもう何も感じなくなりつつある。嫌なことがあってもたいていのものがそういうものと思うようになってしまった。そうすると突然すべてが楽に思えた。自分の居場所はここにはない,自分の大事にしていることはここにはない,ということがわかった時,どれだけ身のこなしがしなやかになったかわからない。今日確認した書類があった。その書類は営業が5分で作成したものだった。内容は半日かけて作られたものと遜色がないどころか,5分で雑に作られたものの方が出来が良いと思えてしまったことに驚いた。時間をかけるほどより良いものができるという世界に居るどころか,どれだけ適当にやり,それっぽい印象を抱かせられるかでしか評価される世界にいないということに少しめまいがしたけれど,どれだけのことがそうでないのだろう。どこにも大事にしているようなものはないならそれなりにやっていくしかない。

だから残念ながら労働はくだらないことの延長で,何かを成し遂げるというようなものとはほど縁遠いことだと思うに至った。確かに前線に立つことが多くなると,必然的に嫌なことも増えてくる。自分はもう悩まないだとか克服しただとか大きなことを言っていながらも,労働風情の嫌なことでまだ悩んでいるということに気づく。ただもしも料理中に包丁で手を切ったり,トイレで用を足しているときに物が想像と違う動きをしたのであれば,それは嫌な気持ちになる。文句の一つでも言いたくなる。労働での文句もその延長にしかないことのように思えてきた。

人の仕事の進め方への悪意や悪口の多くも,変化のないこの澱み切った組織を維持するために必要な循環・濾過装置のように思えてきた。私たちは言語のやり取りでしか互いを確かめられない。ここでの言語とは部長はうなぎが好きだとか,A係員は酒癖が悪いと言ったようなことで,そのコミュニティでしか通じないような言葉である。これらの言葉が無くなったとき,私たちの間で何がやり取りされるのだろう。仕事?事業?そんな大きなこともつまるところは同じような問題意識を共有している人たちの間でしか通じるものではなく,その意味では互いを確かめるための言語でしかない。

そう捉えたときどれだけのことを人は話すことができるのだろうか。もう何かを批判することも何かについて熱く語るということもできなくなっている。語るということへのエネルギーを補給する場所がないことを感じる。その根底にあるのは興味が無くなったということよりも,問題意識を共有できる人が本当にいなくなりつつあるということでもある。最近考えているようなことを率直に伝えられるような人が本当にいなくなっている。そして彼らもきっとどこかでいなくなっていく。より問題意識を広くすればよいといえるかもしれないが,広い問題意識を持ちうるような人が近くに,毎日過ごす職場のような距離感のところにいればそもそもこのような問題は起こらない。ただ,どこにも属さずに宙に浮いてしまって,恥じらいを忘れてしまった私の思考がふわふわと漂っているようにしか思えなくなりつつあることに気づいてしまったのである。

労働が多くの人に居場所を提供してきたのはコミットするだけで問題意識を提供してくれるからだ。恋愛の話がこのくらいの年からなくなってしまったのはもうそこには共通の問題意識を提供してくれるほどのゆとりやあそびがなくなってしまったからだろう。しかしかつての私も含めて労働や恋愛に大きな意義を見出そうとする人が多いのはこの問題意識による連帯こそを見出していたのだろう。この連帯が全く途切れてしまった,宙に浮いた状態ほど気持ちの悪いものはない。どこかに着地したい。問題意識を共有できない人には容赦のない制裁が今でも下されている。それによってしか連帯を共有できない。互いに大事な時間を何かに捧げているという感覚ほど甘美な共犯関係はない。多くの場合,組織のための組織とでもいうような連帯を得るための努力こそが組織であるための第一優先事項であり,その場合,目的や実現結果の如何は付随的なものでしかない。

今日ひたすら仕事でイライラしてしまった。ろくな引継ぎも受けていないのに報告すれば批判めいたことを言われる,突然使用が変更して指示のないままもやっと対応をせざるを得ない,そうしたことが続いたとき,私はどうしてこんなことをやっているのか問いかけられたような気がした。そしてそんなことには悩まなくなったとわかったからこそ,悩まずに適当にやりすごそうとしてしまっていることに漠然とした焦りを感じてしまった。しかし大きな声でイライラしているということを言ってしまったほうがそれを隠している人よりも賞賛される。隠匿と規律は美徳ではない。ただこうして騒ぐことで互いのバランス関係に揺らぎが生じ,その揺らぎこそがバランス関係を確かめる力になっている。私はその意味では非常に重要な役割を果たしたように思える。

しかして悲しいのはこのような自分の思索をまとめ,何かを言ったような感覚になったところで明日を真剣に生きる力は一切沸いてこないことである。ここ最近創作活動を始めた。曲を作ること,小説を書くこと,いろいろと試している。それは世界や同じような境遇の人に充てて,その人たちに認めてもらうためにやろうとしていた時は一切進まず,ただ自分のこの宙に浮いてしまったものをどこかにまとめようと思って行っているものである。誰に読まれたり聞かれたりしなくてもよい。もうそういうことに価値は見出せなくなっている。ただそれは偏屈になっているのではなく惑わされなくなったということであってほしい。そしてこれだけいろいろ言ったところで明日の真剣な力にはならない。その力がある人達を見るとき,悲しいけれど嫉妬するようになった。何を目指しているのか?何になろうとするのか?そのような問いに真っ向から答えられなくなりつつある。このような問いは潜在的に誰かを傷つける。なぜなら求められている答えは問題意識を共有する人にしか届かず,それ以外の人には凶器のような鋭利さをもっているのだ。そしてこれだけ人がいる中でどれだけ問題意識が共有されるのだろうか。問題はリズと青い鳥でふと湧き上がって提起したことに戻っているように思う。