みのまわり

この連休は多くのことが立て込んでしまい、未だに整理のつかないことになっている。

当たり前にあると思っていた自分の席が無くなってしまったこと、あるいは自分の席は今でも当たり前にあるのに捉え方が変わってしまったということのどちらかなのだろう。何かをしようとするほどに出遅れていってしまうような泥沼にはまってしまった。旧友や家族へのまなざしを見直し、考え直す中で、それに基づいて動こうとするほどに遠ざかってしまう。思い浮かぶ人や言葉を取り巻く状況を一度すべて外して、直接触れようとするほどに拒絶されてしまう。この拒絶はかつて私が考えることを止めて、自分に張り巡らせて距離を保とうとしていたものの反作用のようなものなのだろうか。かつて当たり前に接していたものとの距離が測れなくなっている。

実家から今の家に帰るときに持たされた服は、私が転勤する前に実家に置いていったものだった。旧友と語り合えると思ったことは今現在いる私の周りの人と話せないことだった。どこかで時間や相手の認識が止まっている。見ていたのは幻想だと言われるまで気づかなかった。そのことを頼りにこうして考えをたどるほどに、思いもよらないほど大切だったものが多くあったことに気づかされる。今いるところは決して仮の場所ではなく、ふとした一瞬や当たり前を実は心から愛していたのではないか。

見たくないからと遠ざけてきたものを見せられている。結論には一切の反対はないことも、そこに至るまでには遠ざけていたものと向き合わなければならなかった。一方で遠ざけたものは今の私に対する鏡のようにもなっていて、何を持っているのかを見せてくれはした。いつか使うだろうと思っていたものや当たり前に必要と思っていたことにかかるいつかや当たり前は、きっともう実現されないから、荷を見直さなければならない。