書く

文章を書くということが久々だ。個人的につけていた日記はあるがそれすらもあまり書かなくなっている。連日の労働先での飲みを終えて、何も振り返っていなかったということをふと思い出す。

あることがあって何かが決定的に変わるなんてことはない。変わる客体もなくなったように思う。毎日は単調だ。同じ人と顔を合わせて、決まったルーティンとちょっとした刺激的な出来事に触れれば、時間なんてあっという間に経つ。反抗期を経験しなかったことが今になって恨めしい。私というある程度確かだと思うべきものが何もないままここまできてしまっている。さなぎの中の柔らかい部分のまま外に出ている。思えば昆虫はすごい。あんなプニプニしたものがどうして確かなものになるのだろう。誰かに教えてほしい。しかしそれを教えてくれる人など見渡してもいない。そんななかに私はいる。そんななかにこれまでいた。

毎日が本当に単調でそれを恐ろしく思っていた。本質的なことを何もすることがないまま毎日が過ぎていき、年を取るということが怖くて仕方がなかった。怖かった。この怖さに蓋をすることは野暮だと思うまでに至った。だからあえて言うが、怖い。

誰もに理解されるような何かを作りだすことが怖い。そんな何かを作り出すことができるわけもないがそれを試みることが怖くなった。素直に試みようと思った時期があったからなおさらそう思うようになっている。理解されたくないが理解されたいというどうしようもない矛盾がある。根本的にマゾすぎて理解されないことを欲している。

それが今や素直に自己を開示することが労働であってもよいと思うようになった。労働先での話し方や、個性というものが確立してきた。確立しない、どうでもよいという無気力な人という形で私があるようになった。ただそうすることで前より人が私に話してくれるようになった。前よりも多くの人に気にかけてもらえるようになった。何か理想があってそれを実現しようという力は消え失せた。そんな根本的なことができるなら誰だって悩んでいない。この悩みは行き場のないエネルギーに由来する。

燃え尽きた人間というのが随所で話題になる年頃になった。出世や貢献に邁進する人たちがまぶしく思える。違う、目の前の困難に率直に反応できる人たちがまぶしい。これをしなければ、と思うとき、確かな自分を皆は確かめているのだろう。私には確かめられない。誰かがきっとやってくれる、誰も解決できなかったことは私にもきっと簡単には解決できない。私はいつだって試験勉強をするときも解答に頼ってきた。私一人でできることなど何もない。あることを私一人で成し遂げたと言い切るほどのエネルギーもない。言い切るエネルギーがあるなら他人にまぶしさなど感じはしないだろう。

私はこうして考えたことをまとめることそれ自体に喜びを見出していた。しかし喜びを感じること自体に揺らぎが生じている。どうして書くのか?どうして自分を開示したいと思うのか?そう思いながらもこの文章を書いているのはどうしてか?根本的に逃れられない何かにつながれているように思う。この何かを明らかにしたいというのがせめてもの願いではあるが、そんな願いを実現しようとも思わない。

過度の一般化や感想文を止めるつもりはない。それを辞めるということは、確かな自分を証明するようなことでしかないような気がするようになった。私だってまわりに強いことを言いたい。私だってある原因に基づいて結果を予測したい。しかし私もわからなければ原因も結果も何を指すのかわからない。ただあるのは漫然と続く毎日の出勤といおかずみたいなイレギュラーである。私はその中で生きていて、その中に生きている人たちとそれとない会話を交わし、それとなく理解しあう経験を共有している。

そしてそれは幸せなことでもある。生きることが楽になったとき、本質的な悩みは失われいる。本質的なものがわからなくなって、わからないこともどうでもよくなったとき、目の前の出来事が重要なことのように思えてきた。そしてなおさらわからないことはどうでもよくなってくるのであった。