宅建士

 さてまた前回の記事から期間が開いてしまったけれど、その間宅建士の試験に追われていた。今日は簡単ながらそれにまつわる雑感を記録しておきたい。

 宅建の試験はどうやら会社としても絶対に受けてほしいものらしく、この試験に合格できなかった場合は一定の昇給や昇格に障害が出るそうだ。だからといって周りの人々が全員持っているかというとそうでもないが。

 そしてこの試験のことをここで書くのは、非常に思い入れが深い――もちろんそんな思い入れなど早急に捨ててしまいたいのだが――からだ。

 この試験を最初に受けたのは去年だが、何かのせいにするつもりもないけれど、結果は不合格だった。ただ自分は大学で法学部と呼ばれるところに在籍した以上、誰もが簡単に受かるといわれているこの試験くらい2週間未満で余裕で受かるだろうと思っていた。もちろんそうはいかなかった。

 しかしどうも世間一般の評価は自分の経験とは違うみたいで、宅建なんて本当に簡単な試験で、法学部卒ならそもそも勉強しなくてもカンで受かる、そこまでのいわれようだった。果てや立派な大学を出たなら、宅建で苦戦するなんてこと自体があり得ない、とまでの言いようだった。もちろん大学時代の友人には、宅建に落ちたといえば、今まで見たこともないような表情をされるのがとどのつまりだった。

 そう、宅建試験とは、一定の高等教育を受けたなら、絶対に落ちてはいけない試験の一つと、思われていたのだった。もちろん、私もそうだと思っていたから、その言い分は理解できた。

 

 ただどうやら私の場合、現実は違った。今までしてきた類の勉強とはタイプが違う。そして何より、それなりの時間を割いても成績が伸びる気配がない。世間がいうほど簡単な試験ではないように思えた。本当に簡単ではなかった。

 もちろん単純に際限なく机に向かって、時間をさけば問題のない試験だとは思う。だがしかし、どの論点が出るかわからず、ただひたすら不十分な説明しかなく体系的な説明のないテキストと解説を何回も読み込み、何が間違いかを選択するだけの過去問を解き続けるというのは、それなりに骨のいる勉強だった。頭では理解していても、たった一言読みとしただけで正誤が違い、合否が分かれるのだった。毎日精神をすり減らす労働があった後にその作業に取り掛かるのは、なおさらシビアなものに思えたのだった。

 このとき、どれほど諸兄の無責任な言葉に押しつぶされそうになったかわからない。受ければ誰でも受かる簡単な試験、落ちること自体があり得ない、そもそも勉強が必要なのか、そういった無責任な言葉に、どれほど自分がみじめに思えたかわからない。そういう人のほとんどがこの試験を受けていたわけではないので真剣にとらえる必要はないのだけれど、戯言ほど、時間が過ぎてから胸に刺さることが多い。なおさら、そのいわんとしていることが納得できることほど。

 

 今回の宅建試験の結果は正直わからないが、わかったのは、これまで自分が放った無責任な言葉がきっと、どこかでどれほど多くの人を苦しめていたかということに思いをはせる必要があるということだった。何気ない一言が、挑戦しようとする人の心のどこかに鉛筆の芯のように刺さっていることがあり得るかもしれない。その苦しみに対して、今まで無責任でありすぎた。その場限りの面白くもない面白さを追求しすぎていた。

 そして、できないのには、誰にでも事情はあるのということも痛感した。努力さえすればなんとかなると思っていたことも、多くはそれを妨げる原因があり、できない。今までの自分は、それを見逃してくれる環境に恵まれていた。できないといったら誰かがやってくれた。やりたくないといったら、逃げることもできた。ただそれができなくなった今、それでもできないというなら、それなりの理由があるのだろう。できないことをできないというだけで責めるのはあまりに自分勝手だということがわかった。

 

 そう、この試験は困難に対して向き合う人との接し方を教えてくれたような気がする。私も絶対に落ちたくないというプレッシャーのあまり醜いふるまいをどれほどしたか。すべてが終わった今、ものすごく反省している。そして他人に対して、いままでどれほど、「簡単だから絶対受かる」と同類のことをどれほど無責任に言っていたかと、反省している。

 こうした数々のことに宅建試験を通じて思いをはせる事ができた。少なくとも僕には、ものすごく大変でしんどい試験準備期間だった。そんなことはない、何を言っているんだという人に対しては、その言い分も理解できるから反論しない。ただ今は、結果のいかんにかかわらず、すり減らした精神を恢復させたい、ただそれだけを願うばかりだ。