足場をばらす

今いる職場に配属になったときはまだ建物もなく、地面を掘り返していたのに、ついに建物の周りの足場がすべて解体された。

ここ最近の週末は(嬉しいことに)何かと予定を入れていたり、東京に戻ったりしていた。さすがに何もしない日がほしくなったので有休をもらい、今日一日たまりにたまった家事をしてから近所のジムに行った。週末の夕方過ぎに行くとたいてい埋まっているマシンもさすがに月曜の昼過ぎには使われていなかったので、初めてのメニューを取り入れたりしてみた。今、動作のたびに身体が軋むので効果があったのだろう。

一人暮らしをしてからそれなりの時間が経ったからか、思いついたことのうち自分ひとりでできることは、多少スケジュールに無理があってもそれを実現しようとしてしまうようになった。かつて家族と暮らしていたときは何かとルールが厳しく、外出するにも理由だとか、いつ帰るかとか、そんなことを報告しなくてはいけなかった。休みの日は好きな時間に起きて好きな時間に外出できる自由があることに今一度感謝しなくてはならない。そして今日はジムの帰りに飽きるほど餃子が食べたくなったので、部屋を整理し、一人で餃子を包み続けて1時間近く過ごしていた。

ここ最近多くの人と会うことができた。大学時代の友人や会社の同期や先輩、親族と、改めて多くの人に囲まれていることを実感し、私に時間を割いてくれる人々への感謝の念を新たにした。しかしそれ以上に、それがあまりに日常的でないことだからか、そうした楽しい時間が過ぎたあと、その過ぎた時間を埋めるかのようにして、頭の働かない時間がやってくるようになった。その時間は何をするにも段取りが悪く、計画も立たず、何もしないのが一番と思わせるようなものである。

こうした何もしない時間は、今まで何よりも嫌だった。なるべく一日を予定で埋めて、明日以降への投資と頑張っていたし、今でも何もすることがない状態よりも忙しく走り回っていたり、何かに手を取られていたりするほうが好きだ。今思えば迷走だったように思える多くのこともそのときは大真面目にやっていたのは、かつてむやみに暗がりを恐れたように、ひとえにこの空白への恐れだったのではないだろうか。

だから当初は健康のためと思ってやむなく通っていたジムだったが、ある日突然面白くなってきた。筋トレは自己流だし効率が悪いことは百も承知なのだけれど、それでも日に日に扱える重量が増えていく喜びがあったうえに、やるべきことが次々わいてくるからだった。その喜びは日々がなんのためにあるのかを教えてくれるからだったように今では思える。

ところがある日扱える重量は頭打ちになり、当然のようにそれ以上を扱おうとすると体を壊してしまうことがわかるところまで来てしまった。今までおろそかにしていた柔軟性の向上や体幹トレーニングに労力を割かないといけないことが明らかだった。期せずしてそれは予定やすべきことに追われるという当たり前だった日々に追いつけなくなり、何もしない時間が顔をのぞかせはじめたことを意識するようになったころだった。

知る限り、建物を建てるうえでは仮設という考え方が必ず出てくる。仮設足場、仮設クレーン、仮設鋼材といったように、いずれも必ず建設現場では見るものであるものの、最終的な建物には含まれないものばかりである。しかしこれらが効率的に運用されることこそが、プロジェクトの成否のカギを握るといわれるほどに重要であるとされている。事実仮設計画こそが工程の中でも鬼門となることが多く、その工程作成を担当できるようになるまではやはり相当な経験が必要だそうだ。

現場に鎮座していた巨大な仮設クレーンが解体され、さらには建物の外周を取り囲んでいた仮設足場が解体されたとき、プロジェクトも終盤に差し掛かり、その山場も超えたと誰もが感じる。そしてそこで使われていた足場の材料はまた次の現場へと運ばれ、またそこで足場を組みあげ、解体されてと繰り返される。建物の解体工事にも足場は使用されるので、ある建物の新築工事の際に足場を組み立てた職人さんがその建物の取り壊し工事の際の足場の組み立ても担当するということもあるそうだ。

今日包み続けた餃子だが、油と過熱時間が足りなかったからか、皮がくっついた上に水気を多く含みすぎてしまっていて、皿に盛った時には餃子の姿というよりも麻婆豆腐のそれに近かった。トレーニング後だったこともあってか、そのときふと現場事務所から最後の足場材を乗せたトラックがゲートを出ていくのを思い出したので、文章にしてみた。