朝の散歩

午前中が本当に厳しかった。いつもは6時前に起床していたのに,休んでからというもの9時頃に起きられれば良いほうになっていた。しかしこの1週間は毎日7時頃に起きられるようになってきた。治るのは近いかもしれない。

甘えといわれるかもしれない。そういわれるとそうであるが,ところで自分の強い意志があればできることと,意志があってもどうにもできないことの境界がわからなくなってきた。なんでもできると思うときもあれば,その日の食事を考えるので精いっぱいのときもある。自分でできることとできないことは,周りの人や求められることによって決まると改めて考えさせられる。悔しいけれど何をするにも一人ではできない。教えてくれる人が必要だ。

坐禅をするようにしている。学生のころ,坐禅をするゼミに運よく入れた。いわゆる成功した人間や強い人間から遠くなったのはここでの体験があるかもしれない。達成感は麻薬,時には学んだこともすべて捨てる覚悟が必要といわれたことは,師の教えの曲解かもしれないが,そのとき深く響いて,時間が立つほどにその言葉は磨かれ,味が出てくる。強くはなれなかったがしなやかにはなれたと思いたい。自分を自分で安易に認めてしまえるのもしなやかさだ。どこまでも伸びていきたい。結跏趺坐の脚のしびれも,自分が何をおろそかにしてきたか教えてくれる。

それでもどうしても眠かったりスイッチが切れてしまうようなことがある。明日から旅行に行くが,発作が起こらないかが心配だ。感情とはある状態が持続するものではなく,潮の満ち引きのように,昂るときも落ち込むときもある。一瞬として同じ瞬間はない。そして波が大きいときは,高波のように打ち付けては意気込みや価値観のようなものを洗い流してしまう。その瞬間はある意味では何にも縛られないとても貴重な体験だが,人といるうえでは都合が悪い。ところでどれだけ対策をしても波そのものをコントロールすることはできない。できるのは波に打ち付けられたときのリカバリーであり,それならば着実な対応を取れるようになってきた。

スイッチが切れそうになるから,眠れないからと,振り払うように身体を鍛えている。しかしそれはかえって逆効果かもしれない。身体的な疲労は着実に蓄積され,どうしようもなくなる。問題は睡眠をコントロールできなくなることではなく,睡眠をコントロールできないことを恐れることである。

だから朝,軽い散歩に出た。住んでいる町なのに,自分の行動範囲は決まっている。便利になるほど,可能性は制限されてしまう。新しいことにオープンでありたい。そう思いながら目的もなく歩くと,自分の重心がどこにあるのか,どこが痛むのかとかが少しずつ見えてくる。話すべきは他人ではなく自分自身であった,自分との対話をおろそかにしすぎていた。それは住んでいる場所にしてもそうだ。いつものスーパーでいつものどおりの食材を買うのに慣れすぎて,その一本裏の商店街がどうなっているか向き合っていなかった。

商店街の朝は不思議だ。夕方とか仕事終わりに遠目に見たときは,人はおらず,何を売っているかすらわからないような店ばかりなのに,朝は期待に満ちている。ママチャリに乗ったお母さんと子供,日傘で並ぶ母と娘,くたびれたポロシャツのお父さんが行き交う中,シャッターを開ける音や台車が走る音がアーケードに響いている。何度でも言うが,その中に一人取り残されているかのようにまたしても思えてしまう。しかしそれは絶対的に拒絶されているというよりも,むしろ客人として緩やかに招待されているかのようなよそ者感である。そして充満する期待はよそ者だからこそ見えるともわかっている。

部屋に戻ると流し場の食器が見つめてくる。洗わなくてはならないとわかっていてもついめんどくさくて後回しにしてしまうのは,ほかにやるべきことがあるからだ。いや,正確にはあると思っているからだ。自由な時間は,かつてないほどにある。しかし何をするにも自分で勝手に制限をかけている。あれこれをやろうとすると時間がないから,とかこんな状況になっても言っている。修行が足りない。ところでめんどくさいことが終わると,それを無事にやりきれたことへの感謝の念がわいてくるようになった。何に対する感謝なんだろう。発狂の日は近い。