おめでとうございます

全ての面談を終えて職場に戻るスケジュールが決定した。休みもこれで終わる。心残りはあるけれど,やり残したことはきっと永遠に未決の箱に入っていたほうが幸せなものだろう。手の届かない夢であればいつまでも夢のままだ。できることと夢と食べていくことは同じようで微妙に違う。その微妙なズレの中に人生の妙味があるのだと言えば聞こえはいいが,苦味を美味いと感じるにはそれなりの時間がいる。私はグレープフルーツが苦手だった。

病から回復し復帰が決まったとき,どれほどの人におめでとうと言ってもらえただろう。心から感謝している。ここまで気にかけてくれたことは日常であるだろうか。ところで完全に治るとはどういうことだろう,自分が正常だった状態を指し示せるならばどこを指すだろう。果たしてそんな自分はいるのか,いたのか?

先日旅行に行くと言ったが,山寺にこもっていた。

中途半端なサラリーマンをやっているほうがよっぽど楽だった。集中を欠くことができない緊張感,対象を欠いた動作,意味を求めないという状況下で,自分がひとつの独楽のように思えた。ただ一点を軸にして同じ方向に動いているけど動いていない,しかし止まると動かなくなる,また誰かに動かしてもらう,そんなことをしている中で,いろいろなことがどうでもよくなった。どこにいても地獄だ。幸い助けてくれる人は周りにいる,いないと思っていたのはそれは自分から遠ざけていたからだ。その中で自分を主張して流れに逆らうことを存在の証明と考えていたが,どうにもしんどくなってきた。流れに逆らっているとけしかける多く人は流れを読み切っている。本当に逆らおうとして,そこで何かを探している人はそもそも現れてこない,流れに飲まれてしまっているからだろう。どれほど壮大なヴィジョンがあれど,そのヴィジョンを量るのは得てしてその換金度合いだったりする。

山寺で得たことも夢のように現れては消えてしまい,残っているのは経験をこの程度の言葉に変えたものと,精進料理と腹八分目の精神で減った胃袋の要領である。修めたと思ったものもすぐ失われる末法の世に生きている。しかし戦争映画に一人はいる敬虔なクリスチャンのように禅は善い,仏の教えは尊いと言っている。全然わかっていないがそんなもんでいいのかもしれない。音痴な歌を聴いても「おっ,ソウルフルだねえ!」と余裕でかませるくらいでちょうどいいかもしれない。What happens in Vegas, stays in Vegas.

今から何ができるだろうか。昨日明日,1カ月で比べると確かに成長だとか変化は見えるかもしれないけれど,では1年3年,10年と長期的に見たとき,何かが変わっているのだろうか,言い切ることができるのだろうか。ではそのとき,何かを得たりしようとすることはどういうことなのか。悩んでいる人は悩んでいる状態をそもそも楽しんでいたりする。そこに大きな力を加えれば変わるとか,救い出すことができると考えても,結局そうじゃなかったりする。的確なアドバイスや合理的で正しいことを言えば言うほどやったつもりになって足が前に出ないことのほうが多い。何をやろうと考えていたところで本当にやろうと思っているなら,足は前に出てるはずだろう。そう思ったとき,やり残してた,やりたいけどできないと思っていたことはきっとやらないことだろうと思った。そんなことを無理にでもやったところで大きく何かが変わってくれるわけでもなさそうなので,買ってきたワインを開けて2カ月近くグラッパに漬け込んだレーズンをあてに飲みながら,「おめでとう」と言ってくれた人のことや過ごした時間を思い浮かべながら「ありがとう」と返していくキザなことを延々とやっていくしかないのかもしれない。そのことを地獄と呼ぶかは議論に委ねたい。いつでもお待ちしております。ありがとう。