書くこともなければ

何かを成し遂げようとしなければ一日はあまりに長い一方で,その何かが見え始めたときには一日は終わらんとしている。やる気があってもやりたいことがないこともあれば,やりたいことがあってもやる気がないこともある。この両者は大縄跳びのようにぐるぐると回っていて,ちょうどよいタイミングでその中に飛び込まないといけない。しかし実を得ようとする人は最初には飛び込まないから,最初に飛び込む正直者は大体馬鹿を見る。しかし本当の馬鹿であれば実を取ることは関係ないのかもしれない。誰もが同じ土俵で戦っているわけではない。しかし土俵に飛び込んだ以上は,得手不得手やストーリーがあろうと土俵の場で評価されなくてはならない。もしそれが,例えば1分間のタイピングの文字数だったとしても,誰かにとっては本当に大事で,また誰かにとっては本当にどうでもよいことなのに,では何ならばその人の一生がかかった時間の末に勝ち得た切符と呼ぶことができるのだろうか,人として生きてきたことを評価することができる圧倒的な尺度をどこかで求めてしまっているのではないか,そんなものがあるのだろうか。

時間には余裕のある生活をしている。時間に余裕のある生活があれば自分に好きなだけ時間を費やせるからよいではないかと思っていたが,そうはならない。時間の余裕はせわしなさの合間に見つかるもので,大河のように流れる時間の中に浮かんでいるのでは,その切れ目も見ることができない。流れを急にするものは何か。どんな急激な流れの中にいても顔色一つ変えないその強靭さは何か。激流を上る魚たちのうろこが光っている。抗うことを辞めれば一切は自由で,こだわりを捨てればどこにいても流れなんてない。

こんな達観したようなふりをしているほどに実社会から遠ざかっていく。見えざる手やらなんとやらは確実にいて,周りはどんどんと持ち場でそれらしいことをして,それらしくなっていく。時折自分とはただの友人関係にしかない異性が,自分の知らないところでそうしたことをしていたことを知った時の悲しさにも似たものが通り過ぎていく。自分が守っているものそのものをも飲み込んでいくようなエネルギーは,その人がその人たらんとしようと力んだ瞬間に発せられる。それは今まで無意識に行われるようなものだった気がする。ところがそこには先人たちが受け継いできた伝統や思いというものが紛れ込んでいた。読解力が上がるということは幸せな空想の中で眠らせておけばよかったものもたたき起こしてしまうことで,それはある日後ろから鋭い刃物をもって襲い掛かってくる。そして大事業や大成功と思っていたものはサークル的な駆け引きの産物でしかなく,実現されることのない歴史絵巻の中の自分を夢見ることすらも疑わしくなる中年時代がやってくる。誰もが気持ち悪いメッセージを後輩の女子に送ってしまう。傷つくことに慣れるほどに本当に傷つくことはしたくなくなるのだろう。そしてそのとき真にオリジナルなものはなく,自分がなりたくないと思った上司や,親や,先祖や,その敵が書いたであろうことをそのまま惜しげもなく繰り返すのかもしれない。そしてどうにもそれが気持ち悪いか否かと判定されるのは,その言葉の字義通りの意味ではなく,その言葉が発せられるに至ったストーリーこそが読み取れるかどうかなのではないかということで,つまり,こんな感じで適当に書いていたとしても,もし私がそこに至るまでのストーリーをきちんと読み手に伝えることができていたなら,読み解いたと大きく叫ばせることができたならそれは何をやっても気持ち悪くはないのだろうか。

一方でどうしようもない力でねじ伏せられたいと思うような欲求を否定することはできない。どうしてか気持ち悪いものにどうとでもされたいというような面も,気持ち悪いものを遠ざけたいと思うのと同じだけあるだろう。話している本人にしてみれば全く矛盾のない明快な人生理論も,はたから見ていると明白な矛盾を抱えているというのは死ぬほどあるということで,むしろ矛盾があるということを共有しあえる関係こそができるのであれば,それこそがかけがえのないということではないだろうか。いつまでも矛盾というか解決することのない悩みの周りをまわり続けて,同じ間違えばかりをしていてもそれでもそれだと言えるような力を得ることができればよいなあ。