残業50時間詩 1

その昔学校の先輩が世の中には社会をメンテナンスする仕事と社会を前に進める仕事の2つしかなくて、君はどちらに行くのかわかっているのかと言われたことがある。それは苦戦して内定をやっともぎ取り就職先を決めた私を祝う場でのことだった。こうしたことを言いきることのできる先輩だったからきっと今も大活躍されているのだし、社会を前に進められるのだと思う。先輩の名前を各所で見るとき、ふと私はそんな先輩の後輩であるということを誰かに言いたくなると同時に、そんなことでしか自分を語ることがなくなりつつあるという悲しさに襲われた。変わらないのはそんなことを言われたり、そんなことに気づいたときに飲むビールはおいしいんだか渋いんだかわからないというあいまいの極みみたいなところにあるということで、本当はおいしくって爽快の極みのようなビールを飲みたかったなあと酔いが醒めた頃に思うものである。

労働者としての価値ということを就職先を選ぶときに考えればよかったと思う。伝統的な家に生まれ伝統的な価値観の下で育ち伝統的な成功像を自然と追い求めたあまり、どうにもキャリアという観点から考えると派手で目立つようなものは一点もないレジュメが出来上がってしまった。2000年以上も輝き続ける履歴書に憧れたりもするが、自分の名前が歴史に残り、それが燦然と人類史の中で輝いている絵を本当に思い浮かべていたが、根拠なくそうしたことを信じることができたかつてが懐かしくもあり、恐ろしくもある。だから社会を前に進めるということを考えることはなかった。社会は自然と進んでいくものだと思っていた。そして社会には個人の強い思いや、理想や、夢に共感した人々がイキイキして活躍していて、その中心には優秀で有能で人徳に溢れた人がいるはずだった。しかしてそれはどうだっただろう。

私はどうやっても社会を守りパッチをあてていくことしかできないのだろう。いや守ることすらもできない。穴が空いたところを必死で穴が空いてますと叫び続けることしかできない。むしろ天井から水が漏れてきたら漏れてきたところにバケツをおいてずっと見ながら、いやあ漏れてますねえと言い続けることしかできない。なぜなら技術がないから。穴を埋める技術がなければ、漏水を止める技術がなければ、物を変えることができない。ところで私はその間ひたすら適当なことを言いながら相手の怒りが収まるのを待つしかないのだが、そんな人は決して私だけではないとも思う。私はふと映画タイタニックで沈没せんとする船の中で演奏を続けた楽隊のことを思い浮かべた。彼らにもしそこにいた乗客全員を救出することのできる技術があったら、助けただろうか、それとも楽器を弾き続けただろうか。自分にできることをやり続けるというのは確かにそうだが、それではいつまでもそのままだというのを何となく思ってしまう。そしてその感覚は内なる獣のように突然湧き上がっては今立っている場所を炎で燃やし尽くそうとしようとしてくる。

私だけではないだろうが、私のような技術のない人間は皆何をしているのだろう。決して世界中の人が換金価値の高い技術を持った天才イケイケ技術者だとは思わない。私よりきっとプログラミングが下手なプログラマーもいるだろうし、私より謝罪がうまいプログラマーだっているはずだ。技術を持っている人はプログラマーには限定されない。調理人だったり職人さんだったりもそうだ。確かに彼らは時間をかければその技術は磨かれるだろう。しかし私は時間をかけても謝罪までのもって生き方が上達するくらいだが、それだって作法が違うところに行けば全く通用しない。私は40年近くかけて完璧な謝罪をする偉い役員たちを見てきた。しかしもし彼らがシリコンバレーのクソイケイケ企業をファックしてしまったとき、同じマナーで謝罪するのだろうか。私はできるならそこで謝罪のプロトコルの通訳をして金をもらいたい。スターウォーズの時代でもプロトコルの通訳をする専用のロボットがいたのだから、きっとこの仕事はなくならないだろう。しかしてそんな仕事に今は就けず、貴重な時間を尊い労働時間に変えるしか金をもらうすべがない。そのほかないのだ。そしてそこには残念ながら志を金にかえるようなものはない。けれどきっと。私はそれを強く持ち続ける力がなかったのだろう。