君の担当プロジェクトは燃えているかい?

野暮だ。何とでも言ってもらってよい。ただでさえ頭は朦朧としているのに、酒を流し込んで今この入力画面に向かっている。一人で外で飲むのは金曜日だけにしている。いつも行くファミレスでは顔をすっかり覚えられ、「以上でご注文はお揃いでしょうか」という確認事項も私だけ省略される。なぜなら私はフルコースのように追加注文をしていくからで、そのことが店で共有されているからだ。足取りもおぼつかない状態で商店街を歩けばマックの前に無造作にとめられている自転車のサドルの上に座ってスマートフォンをいじる私服の女子高生や、コンビニの前で帰るだの帰りたくないだの押し問答を繰り返すだらしないスーツを着た男とお姉さんがいて、どれもがまるで嘘のように思えて通り過ぎる。牛乳を買うために寄ったスーパーでは家にあるにも関わらずワインを買ってしまう。そうでもしないと自分を保てないから――このような恥ずかしい自分の弱さを嬉々としてアニメの曲をもじった題名の下で話そうとしてしまう自分があさましい。しかしどうしてもこのことは話したい、話さないと収まらないのだ。プロジェクトが炎上するとはどういうことか、そこにはどんな人がいるのか。私がこれから話すことは客観的な事実ではないかもしれないが、私がどう感じたかだけは事実である。リアルなものは、体験したということそれのみだから――。

炎上。いくらでも事例はあるが、私のケースについて説明する。再三触れているように私は請負業に従事しているが、請負業とは人にやれと言われたことをきちんとやれるかどうかがすべてだ。むしろそれ以上はない。それをどんな人がやろうか、やりながらどんなことを考えるか、どれだけ成長したか、そんなことはどうでもよい。聞いてない。請負業とは、人にやれといわれたことをきちんとやれるか、それに尽きる。できることがあるのだから、もちろんやれないことだって世の中にはある。けれどどうだろう、どれだけできることとできないことを人は判別できるのだろうか。分別のついた大人だったら自分の経験を振り返り、自分の強みと弱みを分析し、ふざけんな、ぶっ殺すぞ。そんな人間はいない、少なくとも俺の周りにはいない、できることだけやっていたらできることしかできないままだ。幸いにして人は、誰だって新しい景色を見ようと最初の一歩を踏み出すことを夢見る。もし月に行くことができたら、もし仕事を変えたら、もしこの人に好きだと伝えたら――世界はifに溢れていて、誰だってそこにある可能性を信じてみたくなる。そしてそれができることは人間の最後の尊厳かもしれない。しかし間違いとは、そこで最初の一歩を踏み出してしまうことともいえるだろう。

そして踏み出してしまうと後ろには引き下がれない。たとえそこで誰も想定しなかったようなことが起こってもだ。ルビコンを渡ったら戻れない。いや、引き下がることはできるだろうけれど、それには先立つものが必要になる。マネーだ。マネーがあればなんだってできるが、世にいう取引社会においては違うかもしれない。できると言ったことをできないということは、とんでもないほどの信頼と信用を失うことになる。考えてもみてほしい、あなたに「任せてください」といってきたヤツが突然「できなかった、そもそもコンディションが悪かった、今日は本気が出ないんだ、金ならやる」と言い始めたとき、あなたは許すことができますか?少なくとも私は許せない。そして私と私の関わる人達は不運にもそれで許されない側の人間に回ってしまったのだ。

戦闘で一番難しいのは退却戦で、その退却の最後尾を務める殿はとにかく本軍を逃すという大命を負っている。使えない兵士はその場で捨てられ、救援や補給が望めなくても、それでも目的のため戦わなくてはならないのであれば、それは戦闘という非日常的な状態の中でも、極限的に非日常できあろう。目的のためならなんだって許され、達成したならば望んでいたものすべてを手にすることもできる革命的な状態ともいえる。この非日常的な状態をコントロールすることにこそ殿の一番の難しさがあるのかもしれない。なぜなら、非日常に浮足立っているならば、どんな力だって出せるかもしれないし、どんな些細なことでも躓くことがあるからだ。それが数日や数時間のことだったら確かに士気も上がったり勇気も湧いてくるだろうし、やり切れば報われるということが信じられるならむしろチャンスかもしれない。しかし今回の場合、残念ながら事業の性質から、この非日常的な状態は何年にも及びそうだ。何年間も、あなたが頑張れば頑張るほどそれは事業の失敗を脹らませるけれど、それでもあなたたちだけは頑張り続けなければならない、しかし支援はできる範囲でのみします、と言われ続けたらどうなるだろうか。簡単、人は発狂する。先がないという状態、希望を持てない状態にいる人は本当に容易に発狂する。そこにいる人はどこか遠い目をするようになる。俺の後ろに何か憑いているのだろうか、と思うほどに話をしていても目が合わなくなる。指揮系統が狂う。誰が何の話をして、誰が決定するのかが一切不明瞭になる。長と名の付く人が真っ先に帰ろうとし、打ち合わせや会議を平然とさぼることが当然のようになる。そしてやれと言ったことが、数カ月やられないままだったりもする。今日だって自分の父親くらいの年齢の担当者が会話の途中で突然わかんねえよと何度も何度もつぶやきながら目を押さえて震えていた。このような話はいくらでもしたいが、それ以上は事業に関わる話なので避けたい。

断っておくとこれは支援体制が悪いというわけではない。むしろ考えうる限り最善の支援体制は整っている。しかし、いやなことが起こっているところには誰だって目を向けたくない。もっと楽しくて明るくなるようなことばかりを考えていたい。いやなことに目を向けたというだけで100点をあげたいくらいだ、ましてやそれを解決することができたのなら、なんだってあげてもいいくらいだ――。何が言いたいかというと、他人の炎上は他人事でしかない。一緒にその重荷を負担してあげようという人ほど、重くなった時に荷物をすぐに離す。そしてプロジェクトの責任者からしてみれば、他人事としてしか考えていない人は一瞬で見抜けるのだろう。味方のはずの人を誰一人信じられない状態ほど苦しいものはない。私はそうした懐疑のまなざしを向けられた。私はそうした人を前にしてただその狂気の中に腕を突っ込んでかき回すことしかできず、その重荷を持たせてすらもらえなかった。

私はこのプロジェクトの責任者でもなければ、その当の実行部隊でもなくて、プロジェクトの完遂のために支援する部署の一つのうちの一人でしかない。何をして支援しているかというと、そうして発狂した人たちを見て、少しでも希望を持ち始めたら現実を見せることをしている。最悪と信じたくないことを見せ続け、やるべきことをやらせることでもらったお金で、先ほど述べたようにスーパーでワインを無造作に買っても平穏な生活を送ることができる。現実を見せることができたり、やるべきことをやらせるなんてのは小手先の技術でしかなくて、やっていくうちにどうとでもなり誰でもできるようになることのように思う。だからもらっているお金の9割くらいは、人の限界と向き合うことでもらっているような気がする。

限界を迎えた人には恐ろしい引力がある。こうして今文章を書かないといけないのも、全く飲みたくないのに酒を飲み、帰り道のすべてに意味を見出そうとしてしまったのも、こうした限界の人々に長時間触れたからだろう。これは仕事だと割り切って行っていても、ふとした拍子に自分のやっていることの暴力性や、遠い目の先にあるものを思い浮かべてしまい、どっと疲れる。溜息しか出ない。にもかかわらず、成果物が一切出なければ、状態が改善する見込みもない。自分だっていつ発狂するかわからないという恐れが常に付きまとう。炎上プロジェクトには悪い霊が憑くとよく言う。だから験を担ぎ、ひたすら祈る。皆で祈る。現実は冷静に分析し働きかけないと変わらないと言うが、分析する能力やそれを実行するにも自分が自分であることが必要だ。そして自分であることは、祈りでしか維持することができない。

道中、「仕事するうえで最強なのは、ばっくれること、とぼけること、そして何もしないことの3つだ」と上司と話していた。まじでそうっすよねとゲラゲラ笑いながら相槌を打っていたが、これは発狂した先ほどの人を思っての話だった。確かにその人は最強だった。もう誰にも止められない。誰もが狂うし、誰もを狂わせる。そしてそんな人に接することでまた狂う。こんな文章を臆面もなくさらすことができる。なぜなら何もかもが不確かになるからだ。このままいけば全日本くらい一瞬で恐怖と狂気に叩き落とせるのではないか?プロジェクトは、やって終わるならまだよいんだ。やるということができない状態が恐ろしいのだ。それでもプロジェクトは進まない。君の担当プロジェクトは燃えているかい?