今日はめっちゃ社会が動いていた

今日は自分でも信じられないくらい社会が動いていた。すごい速さで動いていて、思わず熱が胸に騒いでしまった。家に帰って豚足をゆでてみたが一ミリもおいしくない。豚足にゴマダレをつけて白酒で、と思っていたがそんな気分にもならなかった。明日は寿司屋で貝の刺身でもつまんだあとに劇場版ヴァイオレットエヴァ―ガーデンでもレイトショーで観たいと思う。最近貝の刺身が一番おいしい。貝の刺身を食べると昔見た景色を思い出す。北海のグレーの海や、ギリシャの緑の海、小笠原で見た黒と言ったほうがいいような深い海。そんな風景というよりは時間かもしれないが、思い返してはインターネットの海に溶けだしたいという自分勝手な思いが波のように押しよせては引いていく。

かつて上司だったけれど今は仕事のカウンターパートになった人がハラスメントで懲戒をくらい、近々いなくなるそうだ。今朝執務室に来ていたその人はなぜかいつもよりも小さく丸まっていた。声をかけようとしたら、いつもへらへらしている人事たちに個室に連れていかれる場面に出くわしてしまった。その人は人間として最低だったと思うし、許すことはできないと思う。私の同世代の人は何人もその人に叩きのめされ、立ち直れなくなった。私の心身のバランスが崩れるきっかけを作った人はこの人であった。心身は相互に連関しないということをその人は教えてくれた。これほど心身二元論とかそういう現代文の適当なキーワードについて丁寧に説明してくれることはなかった。ところでその人が作る決算書類は思わずため息が出てしまうほど美しかった。もし数字には意味があるから価値があるのだというのであれば、その人が作る数字はどこをとっても相互に関係し、全ての数字が他の数字を説明していた。私が聞きたいと思っていたことはすべて、その人ではなくその人が作る書類のほうが雄弁に語っていたのだった。価値ある数字という我々が追い求めている模範のようなものを難なく作ることのできる人だったと思う。

もう一度言うが、私はその人のことを許すことはできないと思う。今でもあの時を思い出したいとは思わないし、詳細に思い出そうとするとどうしても唇が震える。それらを全て水に流して日々の仕事を一緒にしようとするほど、その当時のことがフラッシュバックし、私が患ったものの本質はPTSDのようなトラウマによる障害だったと気づかされた。そして今日、これまで心の底ではきっと待ち望んでいたであろうことが起こり、しかもそれに立ち会うことができた。しかしどうして心は晴れないのだろう。詳細を聞いたとき目前の仕事に一切集中することができず、思わず笑顔になってしまったが、さりとて今の私が抱える業務と問題は一ミリも変わってくれなかったし、私が自席でかなり大きな声で独り言をつぶやいたとしても、私に同情してくれる人は誰もいなかった。

しかしその事情を知る人に話をすると誰もが、今まで言えなかったことを容赦なく語りだした。噂には聞いていたでしょ、いずれこうなる運命だった、あらあなたはあそこの生き残り、もっと早く罰せられてくれていれば……私もこうして脚色を交えながらもここで話しているから同罪ではあるけれど。判決が確定し自分に危害が加わらないことがわかったときの悪口ほど楽しいことは無い。そして噂は千里を走り、風をあつめてあることないこと交えながら伝わっていくのだろう。現場を知ることが貴いのは、現場がそれらの怪しい情報を一切ものともせず確かな体験を与えてくれるからだろう。私はかつての同僚、私よりもかろうじて確かに心身を保ったもののその人との勤務によって20kg近い体重変動があった同僚に思わず連絡を取りたくなったが、潔白というよりも自分の保身から、打ち込んだ内容を消しては打って、打っては消してを繰り返した。結局連絡することもなく、それとは全く別件で今の上司と自分のキャリアについて話した。私はこの業務に向いていないし、もう成長の幅がなくなってきて、端的に言えば荒れていると伝えたが、それならこの仕事をあなたの10倍以上やっている私はどうなるんだと一蹴された。どこまでいっても自分のことは自分で決めないといけない。

やらなければいけないことがあったのに、先輩が空港の閉鎖によって職場に帰ってくることができなかった。それで私や、私の上司のイライラも募った。刃物を持った人が空港にいたから閉鎖になったそうだ。執念は人を巻き込む。今就活で、人を巻き込んだ経験はありますかと聞かれたならそう聞いた面接官に思いっきり書類を叩きつけ、椅子ごとひっくりかえしてやるだろう。そしてお前が怒り、お前が私について語り、それを上司や同僚や恋人や恋人がその両親に話しそれがインターネットの片隅を賑わせるのなら、これ以上に人を巻き込んだ経験はないだろう。何の話がしたかったんだっけ。理不尽に何かに巻き込まれた人は騒ぐことができても騒ぎをコントロールすることはできないということだっけ。祭りか?

それに関連して、折しも友人の退職エントリーに類するものを見かけた。多くの退職エントリーにあるような現実への反発や自分の正当化はなくて、憎しみや負のエネルギーに触れることについて訥々と語られていた。私もふとそのことについて考えてしまった。憎しみや負のエネルギ―は恐ろしくて、扱い方を間違えると一瞬で奪われてしまう。自然相手のスポーツでもしているように、それらと対峙することは緊張感に溢れているから、緊張が切れると一瞬で足元をさらわれてしまう。すると足がつく場所まで流されていく他はなく、つまりどこまでも自分もその人を憎み続け、その感情の流れが穏やかになるまで待つほかはないのだろう。傷は治っても傷跡は消えることはない。私が今日感じたものはすっかりなくなったはずのものがまるであるかのように感じられる、いわば幻肢痛で、傷は治っても傷跡は消えないという母の教えのとおりのことだった。友人が受けた傷の深さを思った。そして数万人の計画を無為にしてしまうような人の執念を思った。今日生きる意味を私が探している間にも周りにはとんでもないエネルギーがうごめいていて、エネルギーとともに生きている人がいて、私はその事実にまた頭がクラクラするような気がした。ここで書いたことはすべて一つのことからおこっているはずなのに、そのことに迫ろうとするとどうしてこうも届かないのだろう。