風が意味を持ちはじめた

タイトルのとおり風が意味を持ちはじめた。たぶんもうこの生活も長くない。年内か年明けにはこれまでの人生で二番目に長く暮らした場所を去ることになるだろう。どこに行くかは検討はついているけれど、決定はされない宙ぶらりんの状態が続いている。私の気分もそれに伴って乱高下し、無駄な出費と無意味な節制を行ったり来たりしている。端的に言えば異動が近い。異動が近い気がする。

賃金労働者の哀しい性で人事の話くらいしかオリジナリティを発揮する場がない。願わくば人事の論評を偉い人に対してしながら九州と北海道を往復し続ける賃金労働者でありたい。その昔三国志にはまっていたとき、偉い人のところに行って「こいつは○○だ!」って適当な(失礼)大喜利をして生計を立てていた人たちがいたことを知って、私の将来のなりたい仕事(なりたい仕事という表現自体が噴飯物であるが当時の私と私を取り巻く環境ではそれが限界だったことはここで弁明させてほしい。偉大になるためには尊敬される職業に就き有無を言わせぬ財産を築かなければならないといい聞かされて貴重な青春時代を職業訓練に捧げてきたのだ、このことを話すとき私は本当に悲しい気持ちになるし、これほど気持ちよいこともないからぜひとも私が耄碌しても職業訓練の話は?と聞き続けてほしい。同じことを答え続けたい。)の上位にそれはランクインしたが、周囲の猛反発にあった。けれど実感としてはみんな本当はそれになりたかったのではないかと思わないでもない。どこででもそうだと思うがどうして人について話すときみんな本当に表情が豊かになるのだろう。それで生計を立てられたら最高ではないか?疲れるとは思うけど。

角煮は何度作っても味が定まらなければ煮え具合も決まらない。そもそも製法を毎回変えているし、一度も計量をしたことがないからだ。ある時は黒糖だけで煮詰めてみたり、またあるときは泡盛で煮るからとコロコロ変えているから知見が蓄積されない。しかしそれでよいと思う自分が強すぎる。どうして角煮を極める必要があるのか?誰が角煮から偶然性を排除した?角煮のように長時間煮ることが必要な料理(そもそも長時間煮るということに囚われている時点で私は既存の角煮を超えることができないと思う。イノベーションとはまさにこうした暗黙の了解を壊すことを意味するのだろうから「いや角煮ってそもそも」と口を開いた瞬間にはイノベーティブな何かにはどれだけ努力しても届かないところに連れていかれてしまう。もちろん角煮にイノベーションを求めるのか?ということはここでは議論しない。イノベーティブであるか否か等の評価は結果たる成果物によってしか生まれないから、私は結果を出すことに注力する。一の太刀みたいなものだ。)は時が仕事をするのであって私にできることは助走レーンを作ってやることくらいだ。時間がしっかりしていれば私がどれだけポンコツでも適当にいい感じにうまくやってくれるはずである。けれど私は弱いから先人の歩んだ道が知りたくなって蘇東坡のウィキペディアのページを読んだ。この人も異動が大変だったんだな~~~~という気持ちになり、うまい東坡肉が食べたくなった。私には中心でおらつきたい気持ちが相応にあると同時に、光の当たらないところに行って静かにしていたい気持ちが同じだけある。ちなみに唐突に喧嘩を売るがどちらか一方だけの奴は私は勝手にうんこ野郎認定している。その理由は各自考えていただきたい。そして今、私の異動先は知らないところで決まっているんだろうけれど、告げられるまではわからないから私は宣告の日までどちらにもなりうるし、なんにでもなれる。ただ何かを選び取る気力があるかというと、気持ちがあるだけである。ただ今は、こうして自分の生活が何も決められないし何もわからないなあああという時間を大変愛おしく思っている所存であります!!!!――きっと満足のいく角煮が出来上がるには人生をもう何週かしてこんなことで迷わないようにならないといけないのだろう。ところで蘇軾さんは地方にぶっ飛ばされたとき悩んだのだろうか、中央に戻れと言われたときいろいろ考えたのだろうか。今となっては誰も立証できないようなすべてがふわふわした問いはきっと老酒で何時間も煮込んでできたものなのだろう。私が考えたわけではなく何となくやっているうちに自然と辿りついていたことにしておきたい。今は結果だけに責任を負えばいいような気がするから、それと使命感でどれだけでも動けるような気がする。