How to stay in harmony

 机にゆっくり座り、何かを考えながら書くという行動習慣が失われてから久しい。この習慣が失われてしまったのには理由があった。一つは職場が変わり、前よりも業務中に文章を書くようになったので何かを書きたいという要求が薄れたこと、一つは住む場所も変わり生活習慣が変わる時にそもそも書くことが組み込まれなかったこと、また一つは発信することが変わってしまったこともあるかもしれない。のんびりとnujabesを聴きながら白湯を飲み、ここ最近あったことをまとめてみる。

 直近も直近だが、先ほど、誰もがするように映画「ミッドサマー(Midsommar)」を観てきた。ただただ体力を消耗した。ホラーやらサスペンスやらと言われていたが、(もちろん常に手に汗は握ってたし、つらいと思う場面が続いて相当厳しかった)不思議と観終わった後に残されたのは爽やかな感情だった。自分が立っている現在地を別の視点から眺めることには心を軽くしてくれる力があると思っているが、この映画を観て、自分の立っている場所はいかに脆くて危ういものの上に、微妙な緊張と調和の上に成り立っているかということを考えさせられた。レイトショーだったのでシネコンから出る動線が、いつもの動線とは違った。そんな些細な変化一つでさえ、私はいらぬ回り道や、周りの人の話している内容に耳をそばだててしまう。いかに自分が、自分が考えたこと以外のものによって規定されているかを考えてしまう。映画が終わった後に食べようと思った蕎麦屋はやっていなかった。明日こそ蕎麦を食べたいと思いつつ、しかし明日、突然蕎麦が食べれない病気にかかるかもしれない。そのとき、一緒に悲しんでくれる人はどれだけいるだろうか。一人では抱えきれない悲しみや感情の塊を、生活は受け入れることはできないと思う。言葉にならないものや明晰に伝えられないものは、今、目覚ましよりも10分遅く起きて仕事に行き、土日に朝遅くまで寝る生活をしている限りでは、そうしたものはやり過ごすべきものになってしまい、いつの間にか醜いもののように扱うのが正しいように思えてしまう。

 子供が2歳近くになった同期の家に行って鍋を食べた。子供は無条件にかわいいが、言葉もこちらの常識も、こちらの楽しく鍋を囲みながら酒を飲みたいというような都合は一切通じず、無茶なことをしようとしては能わず突然泣き出す子供の姿には、驚いてしまう。私はただ泣く子供に合わせて一緒に声を出してあげたり、人生の早い段階で不条理を突き付けられたことに感謝しつつ、そのやるせなさを一緒に感じてあげて、酒臭い息を吹きかけつつ、つらいよなあと声をかけながら高い高いをしてあげることしかできなかった。一方で、アドバイスはいらないから聞いてくれ、俺のつらさを君も感じてくれ、と私がするには、もう、お金を払わないといけない年齢になってしまった。私だって報酬がなければ、他人のそうした感情を無条件に受け入れる余裕はないだろう。人とのつながりも、ギブとテイクで、自己の利益を最大化するように理性的に動く者同士でないと成立しなくなってきているように思う。無駄話や世間話が得意になったのも、きっと話をするとき、相手に求めることを意識したうえでしか話さないように訓練されたからだろう。昔、初対面の相手にどんな看板の色が好きかを尋ねて、呆れられたことがある。もうそんなしなやかな会話はどれだけ憧れても、自然とは出来なくなっているだろう。

 ここ最近、人は私のところにやってきては、大事にしていたものを奪っていった。もったいぶった言い方をしているが、思い通りにいかないことが続いた、という意味である。それは生活環境が変わったときに必ず経験することかもしれないし、周囲の人が一変したことによるのかもしれない。自分が身近な場所に近づくほど、身近にいたはずの人が遠く思えてしまう。学生の頃、あれだけ交友関係が広く、敵を作らないことを信条としていたのに、今となっては耐えられない連中があまりに多く、人との集まりやワイワイした場所にも出かけなくなっている。ただつまるところその原因は、どれだけ挨拶をできる人や騒げる人が増えたとしても、自分が日々を消化していく中で取りこぼしていった、自分一人では抱えきれない感情の塊のようなものを共有できる人は数名しかいないことに気が付いた、ということに尽きると思っている。この現状を変えたければ、自分の持てるものをただ与えることのみを積み重ね、救われるのを待つのが唯一の正解なのかもしれない。忙しくすることは醜い感情を一時的に忘れさせてくれることは知っているが、負債は雪だるま式に増えていくことは子供の頃に叩きこまれたりしなかっただろうか。

 端的に言うと、仕事は出向を命じられ、全く違う場所で仕事をしている。きっと出向元には絶対にいない顔立ちや体型をしている人に混じっていると、別の惑星に来たように思う。全く勝手のわからない惑星に連れてこられて、遥か遠くに母なる地球を見ながら、一人で何も実ることのできない広大な荒地を耕している。私を送り出した場所は遥か遠くに輝いていて、そこで起きていた嫌なことや現実はすべて、その中に都合よく消えてしまった。島流しがかつて、死罪に次ぐ重い刑であったことが今ではよく理解できる。存在を断たれ、苦しみを自分ひとりで支えるという一見かっこよく、誰もが憧れるようなことも、もう耐えられなくなっている。誰にも感じていることを伝えられない、という字義通りの孤独に耐えられなくなっている。漫画「宝石の国」では、アドミラビリス族というウミウシみたいなやつらのうち、罪人が、種の存続のため、生贄として差し出される描写があった。差し出される罪人の片目からは、恐怖とも怒りともつかない、ただただ力強さ、意志を感じたことを思い出す。もしくは、その眼差しを常に背負うことを受け入れることでしか、コミュニティは維持できないのかもしれないが、この論はまた今度展開したい。

 先述の映画で、決して決定的に重要ではない場面で、"How to stay in harmony"というセリフがあって、なぜかそれが頭に残っている。一つの例でしかないが、後輩が職場を辞めたり、同期で一番威勢が良かったヤツが辞めたりと、誰もが何かを考えているなあと思うことが続いている。きっとそこで、私の考えていることを述べたところで伝わらないだろうから、ただ私は、彼彼女が考えたことを共有してやることしかできない。どこかそういう微妙なバランスの上で多くのことが成り立っているように思うから、彼彼女も、私も、それで救われると良いなと思っている。