どうか安らかに

 ワニが死んだ。こう書けばアクセス数が伸びるのかもしれない。今日も仕事に狩り出され、長時間労働が続いている。長時間労働が続くと多くの身体機能が失われ、自分のできることと思っていた領域がだんだんと狭くなっていく。それを進めた先にあるのが即身仏や、死なのかもしれない。鼻をつまみたくなる表現だが、やはり長時間労働をすることで命や経験を前借しているような気がする。かつてある会社は、就職すれば事業会社の10年分の経験を積めるから、と宣伝していたことを覚えているが、少なくとも私にとっては、それは同時に命や経験を前借していることのように思える。経験の前借は落ち着きともいうこともできれば、老人的無気力ともいうのかもしれない。

 通勤路の桜が満開だった。いわゆる都心通勤者の団地に住んでいるから、少子化という世の中の流れが信じられないほどに子供が多い。子供たちが桜の下でワイワイと遊び、その親たちがベンチでのんびり桜を見ながら我が子を見守っているのを見ると、不思議といろいろなものがこみ上げてきた。祖父母の家の庭には桜の木がある。祖母は私たちが死んでも花見をするために実家に帰ってきてねという話をしたことを覚えている。あるいは私が勝手に記憶を書き換えているか、桜の花を見ると脈々と続く命のようなものを嫌でも考えてしまい、どうも調子が狂う。

 さて以下の原稿はおよそ3年前に書くことを試みたものの、力及ばず途中で筆を折ってしまったものである。時間が経ち、どうも今夜は生と死のようなことを考えたい気分でもあるので、この機に大幅に加筆修正しつつ、供養する。

 

 同期の訃報に接した。にわかには信じられなかった。

 どうしてそんなことをここに書くのか、それは自分の気持ちの整理という面もあるが、何より、彼が私たちと共に居たことを記録しておきたい思いがあるからだろう。

 たいていの重大な知らせがそうであるように、その訃報は思いもよらず舞い込んできた。私はそのとき、現場を離れ、オフィスで勤務するようになっていた。慣れない仕事、意味の分からない慣習、人間関係のいざこざのようなものに過敏に反応しすぎていて、全てがうまく回っていないような状態にあったことを記憶している。電話が鳴るだけで憂鬱になり、横の先輩に仕事のことを聞けなくなっていたような状態だった。そのとき、人事の役職者が私のところにやってきて、定型の書類一枚に彼の名前が記載されたものを持ってきた。それは訃報届だった。知ってるか、と役職者に聞かれたものの、何が、どうして、なんで、といったありとあらゆる疑問に思考がショートし、端的に言えば、私はショック状態にあった。

 彼の性格やら評価を的確に言い表すことは、3年ほど経った今でもやはり言い表すことができない以上、彼とのエピソードを綴ることでしか彼を紹介することができない。

 学生時代、私は生け花サークルに専ら邪な気持ちで参加したことがある。気持ちが邪すぎたが故に一瞬で辞めてしまったが、花を生けることに対する憧れはそれでも失われず、今でもどこかで時間を取ってやってみたいと思っている。だから、新入社員自己紹介の時、いかにも量産型内定者のような雰囲気を残しつつ、場違いなまでに大げさなリアクションをする彼が、実は生け花の手練れだったという話を聞いて、大いに驚き、いろいろな話をするきっかけにもなった。話すうちに、よっぽど私の方が量産型内定者の雰囲気を引きずっていたし、リアクションは過剰だし場違いも甚だしかっただろうと、今振り返ると思う。

 新入社員研修の頃の話になる。寮の1階には大きな食堂があり、そこでは名物おやじがご飯を作ってくれた。料亭で働いていたという噂とはかけ離れたような揚げ物尽くしの献立だったが、今思えば、要所を押さえた料理を朝、夜と供してくれる、良い食堂だった。しかし新入社員である以上、そこでおとなしくを食べるよりも先輩に飲みに連れて行ってもらったり、学生時代の仲間やら知り合いの女の子やらと飲むほうがもちろん格好良く、結果、そこで食事をすることはどこか気恥ずかしいことでもあったように思う。しかしそこで食べたり話したりテレビを見たりしている同期は毎日ある程度はいて、彼もそこでよく見かけるメンバーの一人だった。彼は大体、一升瓶を部屋から持ってきて、同じテーブルの人たちに振る舞っていた。銘柄にもこだわり、食事にあわせて酒を選ぶようなことをやっていた。彼の部屋の冷蔵庫はこうした一升瓶に溢れているとして、ソムリエとかなんとかとほめそやすと、彼はまた新しい一升瓶を自腹で入荷してくれるのだった。決して払いが良い会社だったわけではない。彼は気前が良かった。

 数少ない新入社員時代の思い出の一つに、同期でバーベキューに行くという、ありきたりなものがある。今思えばそれは多くの新入社員がやることだし、その頃一番派手でギラついていたやつらも裏でなんかやっていたような記憶があるので、要するに、期待の低いものであったが、そうしたバーベキューほど盛り上がるものはないということを教えてくれた会でもあった。間もなく信号機で懸垂したり拳が飛んだりするような迷惑な集団になり下がったが、そこに参加していた彼は、かなり気分が高揚しているように見えても、どこか周りから一歩引いたような、冷静さだけは失わなかったような状態だったことを覚えている。本当に覚えているかは怪しいが、当時の写真を振り返っての印象はそうであることを告白する。

 間もなく研修も終わり、彼は首都圏の大規模な現場に配属になった。その頃の働きぶりを私は直接知らないが、同期が数名配属になるような大規模な現場であった記憶がある。きっと誰もが経験するような苦労は少なくともしただろうし、そこでだからこそ経験できたこともあったと思う。私は彼とは夜な夜な連絡し、打ち明けあい、休暇の度に会って飲む、というような仲にはならなかった。だから研修が終わってからというものの、近況報告をするようなことはなかった。だから、彼の記憶はそこから先、一気に薄くなってしまう。

 彼の亡くなるまでの話を聞いたのは、それから3年ほど後、つまり彼が亡くなってから半年くらい経った頃のことだが、地方に赴任になっていた別の同期を尋ねに行ったときだった。こういう時は、大体、1件目でその地方の有名店に行って、2件目に地元民に愛される店に行って、3件目にそいつの良く行く店に連れて行ってもらうことが多い。そしてこの話を聞き出せたのも、3件目で、後輩たちが娯楽のないなか何重にも浮気をして獣のような性行為をしているという体力のいる話を聞かされた後の帰り道のことだった。ただそれも極めて端的に、急に口数が少なくなった彼の話によれば、会社関係の付き合いの飲み会での帰り道、突然意識を失い、そのまま数カ月意識が戻らなかったまま、旅立ったというものだった。葬儀はさすがに苦しいものだったという話だった。そのほかの話は伝聞形に終始し、私たちは終電に乗って帰った。

 私は葬儀に出ることができなかった。その頃、先にも述べたように、何から手を付ければよいのかわからないような状態だった。葬儀に行かせてほしいと言ったとき、上司に言われたのは、引継ぎだけしっかりとやるようにということだった。しかし私は何をどう、誰に引継すれば良いのかも指示があっても動くことができず、ずっと逡巡した挙句、遠距離と業務繁忙を理由に出席しないことにしてしまった。行かないと伝え、どうでもいいような契約書ばかりを選んで承認していたような気がする。そして承認を進めているときに考えていたのは、彼が亡くなってしまったことで彼に会えなくなる悲しさもさることながら、いつか自分もそのように死んでしまう運命にあるという、あまりに単純明快なことの偉大さについてだったと思う。その事実に気づかされたショックは大きかった。

 思えば、幸いなことに、人の死に物心ついてから触れることはなかった。幼い頃曾祖母が荼毘に付された後、私が空に向かってずっと手を振っていたというエピソードが今でも親戚が集まる度に話題になるが、もちろん覚えていない。能天気なことに、死ぬことは、誰もがやるけど自分がやることではないような、完全に他人事のようなことに思えていたのだった。数時間経ち、そうした偉大な事実が、その事実のはたらきが、たった一枚の紙としてしか表現されないということを知ったとき、得体のしれない何かに包まれたような気持ちになったことを覚えている。それはちょうど満開の桜の花を見たときのような、調子はずれの感情の湧き上がりで、押し寄せるような疲労をもたらすものだった。

 お気づきのように、結局、いつもの調子で自分の話しかしていないが、彼の訃報が社内に貼りだされてからおよそ1週間で、ここでも書いたように、私は体調を崩し、しばらく会社を休んだ。それが原因だったわけでも、きっかけだったわけでもない。ただ、私は本当に悲しくなったし、今でも、時折思い出しては悲しくなる。さらには、彼の訃報が私の置かれている環境を圧倒的な力で相対化してくれたことは間違いないと思う。

 こうして筆を進めてみて、死者その人を弔う言葉を私は持ち合わせなかったことに気がつく。その人じゃなきゃダメだったこと、その人だからできたこと、その人だから寂しいこと、そうしたことを並び連ねたとしても、それがその人に向ける最期の言葉となると、どうも嘘っぽく思えてしまう。語ることができるのは残された身近な人への弔辞と、ただ、それに触れたときにどう感じたかに尽きるような気がする。亡くなったのが誰か別の同期だったとしても、味わう悲しみは変わらなかったかもしれない。こればかりはまだ、別の人だったから悲しくなかったとか、また別の人だったからもっと悲しかったとか、どうなるかもわからない。この原稿が3年間も下書きの欄に残り、かつ、消すこともできなかったのは、この点の折り合いがつかなかったからかもしれない。悲しいニュースに関しては、なるべく自分の気持ちに対して誠実でありたいと思っている。

 よく行く焼肉屋がある。なけなしの初任給を集めて通っていた頃は普通の焼肉屋だったが、きっと店の暖かい雰囲気もあってか、今ではすっかり商売繁盛で、地域を代表する一店舗になった感がある。それだからか、最近は海鮮メニューも豊富で、さらには、良い日本酒を多く扱うようになった。しかし店長の好みなのか、「田酒」は、私が通い始めた頃からあって、行くたびに千円札を震えながら出しては飲んでいた。このお酒は、彼が新入社員寮で最初に振る舞ってくれたものであり、労働の後の晩酌の美味しさを教えてくれたものであった。彼は何かとこのお酒を愛飲していた。最も印象に残っている彼の姿はこの「田酒」を飲む姿だったかもしれない。先日、その店で、また別の同期と飲んだ。そのときここに書いたような話をお互いにして、彼の墓参りに行こう、何人かで行こう、今度こそ、という話になったものの、ついつい二日酔いの彼方に消えてしまいそうな気がする。だからそういう時は黙ってまた「田酒」を飲むか、労働の後の晩酌の際に、気持ちに余裕があれば、少しだけ彼のために祈ることにしている。すると不思議と、いろいろと仕切り直せる気がする。

 どうか安らかに。