ケツ

私は高校受験を経験していて、周りにいる首都圏名門校出身の人たちとは少し違う経験を結果としてしたことになっている(だからどうということはない)。だから私は東京の地域の名前と都立高校の名前が結びついているし、有名大学の付属高校が土地の名前を関して呼ばれているのを見た時、その場所がどんなところなのかと想像してみたり、地図で見て住んでいるところとのあまりの遠さに信じられねえなと思ったりもした。幸いにして学校の先生と良好な関係を築くことに成功した私は(きっと両親や祖父母の見えないところでの暗躍があったのだろう、校長は運動会に来た私の祖父母をわざわざ訪ねてきた記憶がある。そして運動会は最高に楽しかった。)純粋に高校受験勉強に専念することができた。数多くの同級生たちが最後の大会やらで熱い青春を展開している時に私は学校裏の公立図書館の2階の多目的トイレ前の丸椅子にかじりついて全国の過去問集数年分にかじりついていたのだが(そうすれば将来的にモテると思っていた)、中年のおじさんのケツの写真とそれを評論した文章を踏まえて、自分とケツの関係性について作文しろという問題に取り掛かろうとした時の、とっておいたケーキのイチゴを食べるような興奮と、早くこのことを塾の友人に伝えてすげーって言われたいという見栄がないまぜになっていた45分くらいほどが私の高校受験の記憶の大半を形成していると思う。

中年のおじさんのケツは確かに家族で旅行に行って温泉に入った時とか、そういう時に何度も見たものであるが、当時を振り返ってみても、それが自分の延長にあるもので、自分のおしりもいずれ醜くたるむのだろうとは思わなかっただろう。左側に重心が寄ってることによる腰痛に苦しめられながら、体中の出るべきところが出きっているが、最近のとんでもない銭湯・サウナブーム(サウナにいろいろ言ってるやつは自分の人生と過ごしてきた時間を振り返ったほうが良い、もう少し熱中すべきことがあると思うし、何かを製作したり手を動かしたりすることをしたほうが良いと思う)で人が溢れかえっている浴場を見わたせば、別に私なんてかわいいもんだろうと思う。しかしそれでも絞られた肉体と世間に対する完全なる無知で鋭いナイフのようになっていた(なっていてほしかった)中学3年生の頃の私が自分の未来について想像する際の身近な題材は、銭湯に当時も今も蠢いている醜くたるんだ中年の肉体だったと思う。祖父母の家の近くに有名な温泉があって、そこに通うという意識を持ち始めたのはその頃だったと思う。自分がきっとこの先もここに来ていることを想像しながら、その時どのような人間になっているだろうかと青臭いことを考えたりするうちに、風呂上がりに飲むものも牛乳からビールに変わり、サマになってきたなと思いつつも、そのようなことに無頓着になるほどに入湯の儀式が洗練されてきた。コピーライターになりたいと数カ月だけ(就職活動の時だけ、この一瞬が今の自分の地獄の半分くらいを作り出している気がする。)思ってしまった自分に対する手向けとして言うのであれば、そうした夢や理想をお湯で流していって、残った最も純粋なものが、ただ怠惰で理想の無い捨て鉢な中年の純米大吟醸のような私だったのだろうと納得している。きっと私も湯に入る際のケツとしわぶきで誰かにこんな渋い人になりたいという夢を振りまいているだろう。(皮肉なことにこれこそが私が就職活動の時に数カ月だけなりたいと願ったコピーライターの真の意味だったのではないかと思う。)

先日も温泉に行ってきて世界チャンピオンになったモハメド・アリのような振る舞いをしてきたが、きっとこれが最後だった。祖父母は家を売って施設に入ることになった。その荷物の整理で、祖父母の家を彩った様々な時代的資料や富の象徴を引き取り(今でも値打ちがあるものばかりを選んだので父に明らかに非難する目で見られた)に家に立ち寄ったのだった。思い出話を断ち切り、要る要らないを短時間で決めて、くたびれて家に戻っても、やらなければならないことは何一つ変わっていない。もう誰も自分のケツを拭いてくれなくなっている。あとどれほどの苦労なのか、それとも前向きなものなのかは分からないけれど、そういったものを与え続けていくうちに、自分のケツは、中学の時に考えた「生きた時間を刻む悠久の存在」になるのだろうか(そんなこと考えてたかは怪しいけれど当時はBUMP OF CHICKENUVERWorldを聴きながらOASISとかUKロックを聞いていたので、そこらへんの皮肉を真似しつつ言葉遣いはそれらの影響を免れ得なかったと思う)。笑わせてくれる。当時の私には追うべきケツがあったはずだった。こういうところで素直になりきれなかったことが今に至るまで呪いのように利いていて、今の地獄の3割くらいを作り出している気がする。考えても仕方がない未来を考えるよりも今を生きろ。そしてモハメド・アリの関連動画で流れていたマイク・タイソンのワンパンKO動画集を見ながら、一度崩れた後にもう一度相手に向かおうとする人たちのその一歩はどこから出ているのだろうかと、畏怖の念を抱いている。