蓄熱

京都の夏は暑い、と夏が近づくたびにいろいろな人に言われたが、そういいたくなる理由がものすごくよくわかる。本当に、本当に暑い。どうしてこんなに暑いのかわからない。

エアコンの効いた部屋で快適に過ごす、このことがどれほどの贅沢かがよくわかった。本設電気設置前の鉄とコンクリートの箱の中を少し歩くだけで、口の中が干上がる。仮設の巨大扇風機にも限界はあり、電池駆動のファンを搭載した空調服も時間とともに効果がなくなっていってしまう。

どうも熱がすぐに体から取り除かれない。十分な水分を摂り涼しいところで休んでも、翌日、翌々日と、熱で感じた疲労はなかなか抜けず、ずっとほてっている。

最近、肉体労働が増えてきた。型枠の中に生コンクリートがきちんと行き届くように木槌でベニヤ板をたたき続けたり、廃材をひたすら集めたりしている。段ボール箱も合計何箱運んだかわからない。身体を動かしているとお金をもらうこと、時間があることがどれだけ尊いかわかる。必要か必要でないかを勝手に身体が判断してくれる気がする。(もちろんそういってするべきことから逃げているというのはあるのだが)

だからだろうか、肉体労働をしていると余計なことを考えなくなってくる。運んだ荷物が組みあがっている場面、ゴミや無駄なものがなくなった場面に出くわすと、連帯感や高揚感を生々しく感じる。自分がいかに身体や一定の動作に従わせることから得られるものを軽視していたか。

それにしても何とかこの熱を取り除かなくては。

ドライエリア

 日記のような、といっても何か気持ちが高まった時に書いたりするメモ帳のようなものは以前から続けていた。もちろん人さまに見せられるようなものではなく、自分ですら見返したくないようなものばかりがたまっている。

 どうも文章を書くことが好きみたいだ。やりたいことは、好きなことは、といろいろ聞かれ、いろいろ考えてみたが、こうやって文章をこねくりまわしていると心が落ち着く。ここ10年くらいだろうか、書くことにものすごく臆病になっていた。それは間違ってはならない、誰に対しても伝わらなくてはならないということを意識しすぎていたからだろう。何もない場所に文字であれ考えであれ、何らかの跡を残せる、そうした楽しみ方もあっていいのかもしれないと思い始めた。

 

 建設関係の仕事をしていると、日々新しいことに出会う。設計されたものと現実のものが一致していなければならない以上、多くのことは実物を見るうちにそれを取り巻く理由のようなものを理解したつもりになれる。しかし何度説明を受けても、どうもわからなかったものがあった。

 地下階のある建築物において、建築物と、地下の土を押さえる壁(=擁壁)との間にできる空間のことをドライエリアというらしい。地下階環境の採光、通風面での改善に加え、地下への物資搬入を容易にするために設けられるそうだ。ドライエリアを広くとる場合、机や椅子を並べたり、園芸スペースにも使えるらしい。

 旧式のトースターの中に閉じ込められると、その外の世界の遠近感は全く失われるだろうことを、工事現場のドライエリアに入った時に知った。擁壁と建築物躯体の隙間に閉じ込められ、そこから組みあがっていく仮設足場から空を見上げると、この隙間が建築物上必要な機能だけで説明できるとはどうも思えなかった。

 コストを投下し造成した地下は、人が往来する地上よりは、持ち主がその空間を支配している力を示しやすいように思える。その地下を、どうして空間の自明な建築物で覆わず、あえて外か内かあいまいな、外部に開かれた空間を設けようとするのか。上述のような機能上の要請が先行していたとしたなら、そこに機能外のものを持ち込む/持ち込もうとするのはどうしてなのか。

 

 あえて外に開かれた場所を持ちたくなるのだろうか。外に開くことで、自分がコントロールしきれない場所を作りたいのだろうか。もし地下階にドライエリアを設けることをそう説明できるとすれば、このブログを開設し自分の書いたものを発信しようとする試みも、その延長線上にあるのかもしれない。