自分で捨て台詞のように言った言葉に自分で傷ついた話

仕事があらかた終わってさて家に帰ろうかと思っていたとき、同僚が話しかけてきた。勤務時間中に私が持ちかけた雑談の続きをしに来てくれたのだった。あまりの律儀さに恐れ入った。

その同僚も全く別のところから流れ流れて今私がいる職場にいる。私も任期付きでここにいるように彼もまたそうで、私の方が彼より(彼といっているが私より年齢は10個くらい上。私はこの環境に甘えてついタメ口でその人としゃべってしまうが、彼は敬語で話してくれる。)2カ月ほど早くここに着いたから、私の方が先に戻る。話は当然我々の今後のことになる。元々いたところに戻るのが怖いとか、最近某は人づかいが荒すぎるとか、業績がこんな感じだから我々なんてすぐ野ざらしにされるだろうとか、そんな話を軽口を交えながら話す時間は心地よく過ぎた。

お気づきかもしれないが、今いる環境の悪口を言うのが何より好きだ。好きだというより、やめられないのかもしれない。自分がスペシャルだと束の間でも思わせてくるからなのか、そうでもしないと平静を保てないほどに自立していないからなのか、おそらくそういった己の弱さのようなものが折り重なってこうなっているんだけれど、それと認識するほどに呪いの言葉にエッジが利いてきて、今日も例に漏れなかった。自分は経歴だけは相応だからここに送り込まれるチャンスをゲットできたけど会社に一切業績をもたらせないからここで体よく潰れたことにしてお払い箱にされようとしているとか、ここで(キから始まる不適切用語)に囲まれて過ごしたから本当の人生と自分に出会えたとか、仕事してるふりだけすればメシが食えるからいい気なもんだ、とまあまあ好き放題言っていた。その瞬間は痛快だが、エレベーターで一人になってふと我に返ると、ひどいことを言ってしまったと少々暗く悲しい気持ちになる。折しも恐ろしいほどの熱量を持った弁舌が今日はそこかしこから聞こえ、ある種の祭りになっていた。それらの言葉を解釈し説明する人たちと、さらにそれを整理しようとする人が溢れかえる中で、帰り血を浴びずにいられる彼らの強さに思いを馳せる。ふがいない。

こうして人生に手ひどくされた時はやはりここに戻ってこうしてまた恨みつらみを書いてしまう。相談相手は自分より経験のある人だと良いと本来的にわかっているはずなのに、自分は過去の自分を眺めつつ、過去と対話し、またこうして同情してもらって済ませようとしている。それは未来の自分に向けてレポートを書いているようなものかもしれないが、やはり相談ではない。これまでの人生で最大の失敗は相談者をここ最近まで持てなかったことだと確信するようになった。尊敬できる人のその点についてだけ相談すれば良い。尊敬は崇拝ではなく、相談は儀式ではない。それをはき違えていたからうまく行かなかった。全て自分でやろうとするから頭打ちになる。まさにその限界に目下直面している。その点、この職場では尊敬できる部分を持った人たちが多かった。誰もが素晴らしい点を持っていて、自分が及ばない点は素直に認めることができた。そうしたことに気づける余裕を持てた、周りの人が教えてくれたということかもしれない。そのくらい今いるところに本当は感謝している。感謝しているし、何よりここでの生活に向いていると思う。こうしてある場所での生活が終わりに近づくほどに、どれだけ嫌なことに、つらいことに溢れていたとしても、不思議と遡及的に明るい色に塗り替えられていく。過去は今いる場所から見える景色のひとつでしかなく、将来もまたそうである、と私は言った。

帰りの電車でクレイジーボーイが大暴れしていた。比喩ではなく、物理的に大暴れしていて、普通に悲鳴や打撃音が隣の車両から聞こえてきて、とても怖い気持ちになった。時折鈍い音で電車が不自然な揺れ方をして、隣の車両で何が起こっているか想像すると嫌な気持ちになる。遠目に見る限りだと被害者が出ているわけではなさそうだったのが救いだった。

間もなく電車が駅に止まり、野次馬根性をむき出しに車両から出て、かといってこの電車を見送るのも嫌なので一番中途半端な姿勢を取って、現場当たりを眺めていた。そして罵声と悲鳴と打撃音が何度か聞こえ、制服の男たちが何人か駆け寄ってきて、直ちに平和が訪れた。時間にしておよそ5分くらい。私は元の車両に戻り、前座っていたところに戻るのもアレだったからそのままドアにもたれていた。車内で動揺しているのは私と数名の小心者で、車内はまるで何もなかったかのように落ち着き払った空気が流れていた。帰りの時間帯はみんな携帯を見ている。お客様トラブルのため8分ほど遅れて発車しますというアナウンスとともに電車は揺られ、次の駅ではいつもよりは少し多めの人が乗り込み、私は席を立ったことを後悔していた。あるクレイジーボーイの決死の行動はこうして日常に回収されたのでした。いつだったかに見た夢の話で恐縮だが、私は強権体制の国にいて生活していた。そこでは人の往来のど真ん中で頭に土嚢袋をかぶせられた人間が容赦なく官憲に拳銃で射殺されるが、私を含め往来の人は特段気に留める様子がなかった。その様子に怖くなって目が覚めたが、そのとき感じた虚しさと胸の痛みを覚えている。今抱えている共同体規模、地球規模の課題をいつか解決することができるのだろうか。豊かになることで救われるのだろうか。次の世代に何を残すことができるのだろうか。どうしてこれだけ頑張っているのに光が見えないのか。やはり終わりが近づくとすべてが美しく思えるんだろうか。こうして意識が高まるほどに、きっと「おつかれ」とか声をかけちゃうんだろうな私は。だからそれまでは呪いの言葉を思いつくままに吐かない。その時のために取っておくために。そして相談すべき人に正しく相談する。適度な運動と節酒。そして4秒ほどの祈りのあと、公開ボタンを押してみる勇気。