どうか安らかに

 ワニが死んだ。こう書けばアクセス数が伸びるのかもしれない。今日も仕事に狩り出され、長時間労働が続いている。長時間労働が続くと多くの身体機能が失われ、自分のできることと思っていた領域がだんだんと狭くなっていく。それを進めた先にあるのが即身仏や、死なのかもしれない。鼻をつまみたくなる表現だが、やはり長時間労働をすることで命や経験を前借しているような気がする。かつてある会社は、就職すれば事業会社の10年分の経験を積めるから、と宣伝していたことを覚えているが、少なくとも私にとっては、それは同時に命や経験を前借していることのように思える。経験の前借は落ち着きともいうこともできれば、老人的無気力ともいうのかもしれない。

 通勤路の桜が満開だった。いわゆる都心通勤者の団地に住んでいるから、少子化という世の中の流れが信じられないほどに子供が多い。子供たちが桜の下でワイワイと遊び、その親たちがベンチでのんびり桜を見ながら我が子を見守っているのを見ると、不思議といろいろなものがこみ上げてきた。祖父母の家の庭には桜の木がある。祖母は私たちが死んでも花見をするために実家に帰ってきてねという話をしたことを覚えている。あるいは私が勝手に記憶を書き換えているか、桜の花を見ると脈々と続く命のようなものを嫌でも考えてしまい、どうも調子が狂う。

 さて以下の原稿はおよそ3年前に書くことを試みたものの、力及ばず途中で筆を折ってしまったものである。時間が経ち、どうも今夜は生と死のようなことを考えたい気分でもあるので、この機に大幅に加筆修正しつつ、供養する。

 

 同期の訃報に接した。にわかには信じられなかった。

 どうしてそんなことをここに書くのか、それは自分の気持ちの整理という面もあるが、何より、彼が私たちと共に居たことを記録しておきたい思いがあるからだろう。

 たいていの重大な知らせがそうであるように、その訃報は思いもよらず舞い込んできた。私はそのとき、現場を離れ、オフィスで勤務するようになっていた。慣れない仕事、意味の分からない慣習、人間関係のいざこざのようなものに過敏に反応しすぎていて、全てがうまく回っていないような状態にあったことを記憶している。電話が鳴るだけで憂鬱になり、横の先輩に仕事のことを聞けなくなっていたような状態だった。そのとき、人事の役職者が私のところにやってきて、定型の書類一枚に彼の名前が記載されたものを持ってきた。それは訃報届だった。知ってるか、と役職者に聞かれたものの、何が、どうして、なんで、といったありとあらゆる疑問に思考がショートし、端的に言えば、私はショック状態にあった。

 彼の性格やら評価を的確に言い表すことは、3年ほど経った今でもやはり言い表すことができない以上、彼とのエピソードを綴ることでしか彼を紹介することができない。

 学生時代、私は生け花サークルに専ら邪な気持ちで参加したことがある。気持ちが邪すぎたが故に一瞬で辞めてしまったが、花を生けることに対する憧れはそれでも失われず、今でもどこかで時間を取ってやってみたいと思っている。だから、新入社員自己紹介の時、いかにも量産型内定者のような雰囲気を残しつつ、場違いなまでに大げさなリアクションをする彼が、実は生け花の手練れだったという話を聞いて、大いに驚き、いろいろな話をするきっかけにもなった。話すうちに、よっぽど私の方が量産型内定者の雰囲気を引きずっていたし、リアクションは過剰だし場違いも甚だしかっただろうと、今振り返ると思う。

 新入社員研修の頃の話になる。寮の1階には大きな食堂があり、そこでは名物おやじがご飯を作ってくれた。料亭で働いていたという噂とはかけ離れたような揚げ物尽くしの献立だったが、今思えば、要所を押さえた料理を朝、夜と供してくれる、良い食堂だった。しかし新入社員である以上、そこでおとなしくを食べるよりも先輩に飲みに連れて行ってもらったり、学生時代の仲間やら知り合いの女の子やらと飲むほうがもちろん格好良く、結果、そこで食事をすることはどこか気恥ずかしいことでもあったように思う。しかしそこで食べたり話したりテレビを見たりしている同期は毎日ある程度はいて、彼もそこでよく見かけるメンバーの一人だった。彼は大体、一升瓶を部屋から持ってきて、同じテーブルの人たちに振る舞っていた。銘柄にもこだわり、食事にあわせて酒を選ぶようなことをやっていた。彼の部屋の冷蔵庫はこうした一升瓶に溢れているとして、ソムリエとかなんとかとほめそやすと、彼はまた新しい一升瓶を自腹で入荷してくれるのだった。決して払いが良い会社だったわけではない。彼は気前が良かった。

 数少ない新入社員時代の思い出の一つに、同期でバーベキューに行くという、ありきたりなものがある。今思えばそれは多くの新入社員がやることだし、その頃一番派手でギラついていたやつらも裏でなんかやっていたような記憶があるので、要するに、期待の低いものであったが、そうしたバーベキューほど盛り上がるものはないということを教えてくれた会でもあった。間もなく信号機で懸垂したり拳が飛んだりするような迷惑な集団になり下がったが、そこに参加していた彼は、かなり気分が高揚しているように見えても、どこか周りから一歩引いたような、冷静さだけは失わなかったような状態だったことを覚えている。本当に覚えているかは怪しいが、当時の写真を振り返っての印象はそうであることを告白する。

 間もなく研修も終わり、彼は首都圏の大規模な現場に配属になった。その頃の働きぶりを私は直接知らないが、同期が数名配属になるような大規模な現場であった記憶がある。きっと誰もが経験するような苦労は少なくともしただろうし、そこでだからこそ経験できたこともあったと思う。私は彼とは夜な夜な連絡し、打ち明けあい、休暇の度に会って飲む、というような仲にはならなかった。だから研修が終わってからというものの、近況報告をするようなことはなかった。だから、彼の記憶はそこから先、一気に薄くなってしまう。

 彼の亡くなるまでの話を聞いたのは、それから3年ほど後、つまり彼が亡くなってから半年くらい経った頃のことだが、地方に赴任になっていた別の同期を尋ねに行ったときだった。こういう時は、大体、1件目でその地方の有名店に行って、2件目に地元民に愛される店に行って、3件目にそいつの良く行く店に連れて行ってもらうことが多い。そしてこの話を聞き出せたのも、3件目で、後輩たちが娯楽のないなか何重にも浮気をして獣のような性行為をしているという体力のいる話を聞かされた後の帰り道のことだった。ただそれも極めて端的に、急に口数が少なくなった彼の話によれば、会社関係の付き合いの飲み会での帰り道、突然意識を失い、そのまま数カ月意識が戻らなかったまま、旅立ったというものだった。葬儀はさすがに苦しいものだったという話だった。そのほかの話は伝聞形に終始し、私たちは終電に乗って帰った。

 私は葬儀に出ることができなかった。その頃、先にも述べたように、何から手を付ければよいのかわからないような状態だった。葬儀に行かせてほしいと言ったとき、上司に言われたのは、引継ぎだけしっかりとやるようにということだった。しかし私は何をどう、誰に引継すれば良いのかも指示があっても動くことができず、ずっと逡巡した挙句、遠距離と業務繁忙を理由に出席しないことにしてしまった。行かないと伝え、どうでもいいような契約書ばかりを選んで承認していたような気がする。そして承認を進めているときに考えていたのは、彼が亡くなってしまったことで彼に会えなくなる悲しさもさることながら、いつか自分もそのように死んでしまう運命にあるという、あまりに単純明快なことの偉大さについてだったと思う。その事実に気づかされたショックは大きかった。

 思えば、幸いなことに、人の死に物心ついてから触れることはなかった。幼い頃曾祖母が荼毘に付された後、私が空に向かってずっと手を振っていたというエピソードが今でも親戚が集まる度に話題になるが、もちろん覚えていない。能天気なことに、死ぬことは、誰もがやるけど自分がやることではないような、完全に他人事のようなことに思えていたのだった。数時間経ち、そうした偉大な事実が、その事実のはたらきが、たった一枚の紙としてしか表現されないということを知ったとき、得体のしれない何かに包まれたような気持ちになったことを覚えている。それはちょうど満開の桜の花を見たときのような、調子はずれの感情の湧き上がりで、押し寄せるような疲労をもたらすものだった。

 お気づきのように、結局、いつもの調子で自分の話しかしていないが、彼の訃報が社内に貼りだされてからおよそ1週間で、ここでも書いたように、私は体調を崩し、しばらく会社を休んだ。それが原因だったわけでも、きっかけだったわけでもない。ただ、私は本当に悲しくなったし、今でも、時折思い出しては悲しくなる。さらには、彼の訃報が私の置かれている環境を圧倒的な力で相対化してくれたことは間違いないと思う。

 こうして筆を進めてみて、死者その人を弔う言葉を私は持ち合わせなかったことに気がつく。その人じゃなきゃダメだったこと、その人だからできたこと、その人だから寂しいこと、そうしたことを並び連ねたとしても、それがその人に向ける最期の言葉となると、どうも嘘っぽく思えてしまう。語ることができるのは残された身近な人への弔辞と、ただ、それに触れたときにどう感じたかに尽きるような気がする。亡くなったのが誰か別の同期だったとしても、味わう悲しみは変わらなかったかもしれない。こればかりはまだ、別の人だったから悲しくなかったとか、また別の人だったからもっと悲しかったとか、どうなるかもわからない。この原稿が3年間も下書きの欄に残り、かつ、消すこともできなかったのは、この点の折り合いがつかなかったからかもしれない。悲しいニュースに関しては、なるべく自分の気持ちに対して誠実でありたいと思っている。

 よく行く焼肉屋がある。なけなしの初任給を集めて通っていた頃は普通の焼肉屋だったが、きっと店の暖かい雰囲気もあってか、今ではすっかり商売繁盛で、地域を代表する一店舗になった感がある。それだからか、最近は海鮮メニューも豊富で、さらには、良い日本酒を多く扱うようになった。しかし店長の好みなのか、「田酒」は、私が通い始めた頃からあって、行くたびに千円札を震えながら出しては飲んでいた。このお酒は、彼が新入社員寮で最初に振る舞ってくれたものであり、労働の後の晩酌の美味しさを教えてくれたものであった。彼は何かとこのお酒を愛飲していた。最も印象に残っている彼の姿はこの「田酒」を飲む姿だったかもしれない。先日、その店で、また別の同期と飲んだ。そのときここに書いたような話をお互いにして、彼の墓参りに行こう、何人かで行こう、今度こそ、という話になったものの、ついつい二日酔いの彼方に消えてしまいそうな気がする。だからそういう時は黙ってまた「田酒」を飲むか、労働の後の晩酌の際に、気持ちに余裕があれば、少しだけ彼のために祈ることにしている。すると不思議と、いろいろと仕切り直せる気がする。

 どうか安らかに。

How to stay in harmony

 机にゆっくり座り、何かを考えながら書くという行動習慣が失われてから久しい。この習慣が失われてしまったのには理由があった。一つは職場が変わり、前よりも業務中に文章を書くようになったので何かを書きたいという要求が薄れたこと、一つは住む場所も変わり生活習慣が変わる時にそもそも書くことが組み込まれなかったこと、また一つは発信することが変わってしまったこともあるかもしれない。のんびりとnujabesを聴きながら白湯を飲み、ここ最近あったことをまとめてみる。

 直近も直近だが、先ほど、誰もがするように映画「ミッドサマー(Midsommar)」を観てきた。ただただ体力を消耗した。ホラーやらサスペンスやらと言われていたが、(もちろん常に手に汗は握ってたし、つらいと思う場面が続いて相当厳しかった)不思議と観終わった後に残されたのは爽やかな感情だった。自分が立っている現在地を別の視点から眺めることには心を軽くしてくれる力があると思っているが、この映画を観て、自分の立っている場所はいかに脆くて危ういものの上に、微妙な緊張と調和の上に成り立っているかということを考えさせられた。レイトショーだったのでシネコンから出る動線が、いつもの動線とは違った。そんな些細な変化一つでさえ、私はいらぬ回り道や、周りの人の話している内容に耳をそばだててしまう。いかに自分が、自分が考えたこと以外のものによって規定されているかを考えてしまう。映画が終わった後に食べようと思った蕎麦屋はやっていなかった。明日こそ蕎麦を食べたいと思いつつ、しかし明日、突然蕎麦が食べれない病気にかかるかもしれない。そのとき、一緒に悲しんでくれる人はどれだけいるだろうか。一人では抱えきれない悲しみや感情の塊を、生活は受け入れることはできないと思う。言葉にならないものや明晰に伝えられないものは、今、目覚ましよりも10分遅く起きて仕事に行き、土日に朝遅くまで寝る生活をしている限りでは、そうしたものはやり過ごすべきものになってしまい、いつの間にか醜いもののように扱うのが正しいように思えてしまう。

 子供が2歳近くになった同期の家に行って鍋を食べた。子供は無条件にかわいいが、言葉もこちらの常識も、こちらの楽しく鍋を囲みながら酒を飲みたいというような都合は一切通じず、無茶なことをしようとしては能わず突然泣き出す子供の姿には、驚いてしまう。私はただ泣く子供に合わせて一緒に声を出してあげたり、人生の早い段階で不条理を突き付けられたことに感謝しつつ、そのやるせなさを一緒に感じてあげて、酒臭い息を吹きかけつつ、つらいよなあと声をかけながら高い高いをしてあげることしかできなかった。一方で、アドバイスはいらないから聞いてくれ、俺のつらさを君も感じてくれ、と私がするには、もう、お金を払わないといけない年齢になってしまった。私だって報酬がなければ、他人のそうした感情を無条件に受け入れる余裕はないだろう。人とのつながりも、ギブとテイクで、自己の利益を最大化するように理性的に動く者同士でないと成立しなくなってきているように思う。無駄話や世間話が得意になったのも、きっと話をするとき、相手に求めることを意識したうえでしか話さないように訓練されたからだろう。昔、初対面の相手にどんな看板の色が好きかを尋ねて、呆れられたことがある。もうそんなしなやかな会話はどれだけ憧れても、自然とは出来なくなっているだろう。

 ここ最近、人は私のところにやってきては、大事にしていたものを奪っていった。もったいぶった言い方をしているが、思い通りにいかないことが続いた、という意味である。それは生活環境が変わったときに必ず経験することかもしれないし、周囲の人が一変したことによるのかもしれない。自分が身近な場所に近づくほど、身近にいたはずの人が遠く思えてしまう。学生の頃、あれだけ交友関係が広く、敵を作らないことを信条としていたのに、今となっては耐えられない連中があまりに多く、人との集まりやワイワイした場所にも出かけなくなっている。ただつまるところその原因は、どれだけ挨拶をできる人や騒げる人が増えたとしても、自分が日々を消化していく中で取りこぼしていった、自分一人では抱えきれない感情の塊のようなものを共有できる人は数名しかいないことに気が付いた、ということに尽きると思っている。この現状を変えたければ、自分の持てるものをただ与えることのみを積み重ね、救われるのを待つのが唯一の正解なのかもしれない。忙しくすることは醜い感情を一時的に忘れさせてくれることは知っているが、負債は雪だるま式に増えていくことは子供の頃に叩きこまれたりしなかっただろうか。

 端的に言うと、仕事は出向を命じられ、全く違う場所で仕事をしている。きっと出向元には絶対にいない顔立ちや体型をしている人に混じっていると、別の惑星に来たように思う。全く勝手のわからない惑星に連れてこられて、遥か遠くに母なる地球を見ながら、一人で何も実ることのできない広大な荒地を耕している。私を送り出した場所は遥か遠くに輝いていて、そこで起きていた嫌なことや現実はすべて、その中に都合よく消えてしまった。島流しがかつて、死罪に次ぐ重い刑であったことが今ではよく理解できる。存在を断たれ、苦しみを自分ひとりで支えるという一見かっこよく、誰もが憧れるようなことも、もう耐えられなくなっている。誰にも感じていることを伝えられない、という字義通りの孤独に耐えられなくなっている。漫画「宝石の国」では、アドミラビリス族というウミウシみたいなやつらのうち、罪人が、種の存続のため、生贄として差し出される描写があった。差し出される罪人の片目からは、恐怖とも怒りともつかない、ただただ力強さ、意志を感じたことを思い出す。もしくは、その眼差しを常に背負うことを受け入れることでしか、コミュニティは維持できないのかもしれないが、この論はまた今度展開したい。

 先述の映画で、決して決定的に重要ではない場面で、"How to stay in harmony"というセリフがあって、なぜかそれが頭に残っている。一つの例でしかないが、後輩が職場を辞めたり、同期で一番威勢が良かったヤツが辞めたりと、誰もが何かを考えているなあと思うことが続いている。きっとそこで、私の考えていることを述べたところで伝わらないだろうから、ただ私は、彼彼女が考えたことを共有してやることしかできない。どこかそういう微妙なバランスの上で多くのことが成り立っているように思うから、彼彼女も、私も、それで救われると良いなと思っている。

ゴルフコンペで最下位だったのが地味に響いてる

ゴルフは好きでも嫌いでもなく、誘われたらコンペに参加するけれど自分からは進んで練習しないし、そのスタンスを崩して上達しようとも思っていない。しかし先日のようにゴルフをしたら全員が自分の半分くらいのスコアで、高いレベルで競い合っているのを見たりすると人並みに自分が惨めに思える。特に皆に注目される第一打はひどくて、全身が完全に硬直してしまってだいたいがおむすびころりんのような弾道を描く。そんなときのなんとも言えない、笑うにも笑えないような微妙な空気感を楽しむのがゴルフだと本当に割り切れているつもりではあるが、それでも一人でぬかるむ坂道を走りながらボールを探してるときとかは、どうして人生はこうも不如意に溢れているのだろうと突然感傷的にもなってしまう。これこそが本当の自分で、熱意を持てないし変えようともしないから誰からも見向きもされず底辺をはいずりまわっているだけなのでは、と頭をよぎるけれど、最下位の最終成績表を受け取ると、左肩あたりの筋肉の嫌な硬直を感じる。人生は厳しい、頑張れ、負けるな、諦めるなと私がおむすびころりんする度に先人たちは声をかけてくれるが、しなくてもいい深読みばかりするスキルだけが上がっていく。

最近の人生はあまりに不如意に溢れている。順調にいろいろと行っているように見えるだろうし自分でも順調ではないとは思わないが、それでも自分ではどうしようもないことが多くなってきた。別に取り立てて意識する必要のない小さなことが積みあがっていくうちに、気づいたときにはもう取返しのつかない状態になっていると感じることが多い。引越の準備をしていてかつての手帳や考えを書き留めていたノートを見返したが、あまりの自分の愚かさに悲しくなったことはさておき、なぜかそこには真摯さがあったように感じた。ここ最近とても生活するのが楽になった気がしたのだけれど、それは真摯さを切り捨てたからかもしれない。ある時点で何かが完成してしまった気がする。そしてそこに入っていなかったものはたぶんこの先もどうしようもできないようなものである気がする。腹が立ってもそれを反省して何かを変えようと努力することも無くなった。朝起きれば何も気にならない。頑張れなくなったことの結果を引き受けているだけなので、それを変えたいのなら頑張らなければならないが、縛られすぎている。

アニメ「まちカドまぞく」を見た。ストーリーどうこうよりもそこで表現されていた間の取り方やかわいらしさと美しい人間関係にただただ涙していた。ひたすら吉田優子ことシャミ子を応援していた。かつてだったらこの手のアニメに気を留めることはなかったように思う。登場人物の成長に自分を重ねたり、自分の考えを代弁してくれるもの、思わず誰かに技法の巧みさを話したくなるようなアニメを中心にえり好みしてみていたが、なぜかそれらに向き合うのも腰が重くなってきた。縛るものに導かれて視点が変わってきたのだろう。頑張れシャミ子、と天の声と一緒に口にするたびになぜか心が締め付けられた。(これは私の気持ちの表明であり、とてもパーソナルな部分を開陳している。とても恥ずかしい。)共感を求められることはあっても共感をしてもらえることはなくなってきた。できれば共感したいと思うときくらい自分に選ばせてほしい。いろいろ書いてるけど今日は筆が進まない。睡眠が足りてない。ものすごく疲れているはずなのに全く疲れているように思えない。近々倒れて臓器の何かがふっとぶんだと思う。まあそんなもんだろと思わないとやっていけない。

集合住宅の1階のロビー

小学生の頃職員の集合住宅に住んでいて、エントランスになっている1階のスペースで集まっては遊んでいた。集合住宅だからできる遊びにも限界があっていつしかそれはカードゲームになって、エントランスの人が出入りするところでカードを広げてゲームしたり、携帯ゲーム機で何人かで遊んでいた。通り過ぎる大人たちは近頃の子供たちは走り回ったりして遊ばない、ゲームばっかりしている、活気がないから挨拶もできないということを態度で私たちに示した。折しもゲーム脳というような言葉が流行しはじめたときではあった。

集合住宅の壁に向かってボールを蹴っていると、一番端に住んでいた上田君(仮名)の親が出てきて、ボールを蹴っていた私たちを部屋に入れて外から蹴られるボールが室内にどう響くか感じなさいと言って怒ってきた。しかし私たちはそもそもそんなボールの音は気にならないから、上田君の家にあるゲーム機でずっとゲームをしたり、上田君が一生懸命作ったプラモデルを見せてもらったり、上田君が時折気に入らないことをすればプラモデルを壊して遊んだりしていた。なんなら家でゲームをするために壁に向かってボールを蹴ったこともあった。むしろプラモデルを壊したときの上田君のリアクションのほうが学ぶところが多かった。上田君の家で読ませてもらった世界の偉人伝のマンガは忘れられない。特にベートーヴェンが聴力を失ってもなお音楽を作り続けたシーンは今も印象に残っていて、模範にするべきだと思っている。端的に言えば当時の私、私たちには取り立てて恐れるべきこともなく、ただ同じようなメンバーで同じような場所で同じ用なことをずっとやっていただけだった。しかしそれは不思議と楽しいことであった。上田君にとっては最悪だったと思うが、上田君とはその後も彼が引っ越すまで変わらぬ付き合いがあったから許されていると思っている。

今日、私は相手方との飲み会で他愛もない話をしながら芋焼酎のお湯割りを飲んでいた。博多料理のもつ鍋屋でもつ鍋も頼まず、いろいろな居酒屋にあるメニューの変奏曲のようなものをあてに、楽しくワイワイやっていた。前日後輩たちの会に招かれて参加したが結局何一つ自分が本当に楽しい話題も、相手が楽しそうにしている話題もないまま解散し、後輩に対して変な気を遣うようになってしまった自分の情けなさにも気が滅入ってしまった。ここに居る人たちはきっと前日に私が感じたようなやるせなさをどれだけ経験してきたのだろうという文脈こそがその人たちのする話を魅力的にするのであって、話それ自体に魅力を求めることは間違っているのだろうとも考えた。私は下らぬ考えようもないことを考えながら、静かに今日を終えた。

小学生の頃だったら怒られたようなコミュニケーションしかしていない。別に取り立てて異常な危機が起こるわけでもなく、互いの悪口を言い合いながらも絶対に超えてはならない一線は皆が尊重しあっている。誰もが出入りするような大きな通りの目立つところにある飲み屋で前回と大して変わらない飲み物を飲みながら、いつまでも同じように話を続ける。小学生の頃は何が楽しいかなんて考えていなかった。振り返るとそれの方が自然であって、どうやったら楽しいか、素晴らしいか、格にふさわしいか、そんなことを考えている方が不自然なのだろう。だらりと伸びる5時のチャイムまでの時間がこのまま続いていけばいいのになと思う気持ちと、そうじゃないチャイム、例えば戦闘開始のチャイムのようなものをどこかで待ってしまう気持ちがある。誰かに何かいってもらうのを待ってみるが、誰も言わない以上は自分が言われたことを思い返しながらやっていくしかない。そのときになってはじめて家に上げてくれた上田君の家族のことを思い出す。

風が意味を持ちはじめた

タイトルのとおり風が意味を持ちはじめた。たぶんもうこの生活も長くない。年内か年明けにはこれまでの人生で二番目に長く暮らした場所を去ることになるだろう。どこに行くかは検討はついているけれど、決定はされない宙ぶらりんの状態が続いている。私の気分もそれに伴って乱高下し、無駄な出費と無意味な節制を行ったり来たりしている。端的に言えば異動が近い。異動が近い気がする。

賃金労働者の哀しい性で人事の話くらいしかオリジナリティを発揮する場がない。願わくば人事の論評を偉い人に対してしながら九州と北海道を往復し続ける賃金労働者でありたい。その昔三国志にはまっていたとき、偉い人のところに行って「こいつは○○だ!」って適当な(失礼)大喜利をして生計を立てていた人たちがいたことを知って、私の将来のなりたい仕事(なりたい仕事という表現自体が噴飯物であるが当時の私と私を取り巻く環境ではそれが限界だったことはここで弁明させてほしい。偉大になるためには尊敬される職業に就き有無を言わせぬ財産を築かなければならないといい聞かされて貴重な青春時代を職業訓練に捧げてきたのだ、このことを話すとき私は本当に悲しい気持ちになるし、これほど気持ちよいこともないからぜひとも私が耄碌しても職業訓練の話は?と聞き続けてほしい。同じことを答え続けたい。)の上位にそれはランクインしたが、周囲の猛反発にあった。けれど実感としてはみんな本当はそれになりたかったのではないかと思わないでもない。どこででもそうだと思うがどうして人について話すときみんな本当に表情が豊かになるのだろう。それで生計を立てられたら最高ではないか?疲れるとは思うけど。

角煮は何度作っても味が定まらなければ煮え具合も決まらない。そもそも製法を毎回変えているし、一度も計量をしたことがないからだ。ある時は黒糖だけで煮詰めてみたり、またあるときは泡盛で煮るからとコロコロ変えているから知見が蓄積されない。しかしそれでよいと思う自分が強すぎる。どうして角煮を極める必要があるのか?誰が角煮から偶然性を排除した?角煮のように長時間煮ることが必要な料理(そもそも長時間煮るということに囚われている時点で私は既存の角煮を超えることができないと思う。イノベーションとはまさにこうした暗黙の了解を壊すことを意味するのだろうから「いや角煮ってそもそも」と口を開いた瞬間にはイノベーティブな何かにはどれだけ努力しても届かないところに連れていかれてしまう。もちろん角煮にイノベーションを求めるのか?ということはここでは議論しない。イノベーティブであるか否か等の評価は結果たる成果物によってしか生まれないから、私は結果を出すことに注力する。一の太刀みたいなものだ。)は時が仕事をするのであって私にできることは助走レーンを作ってやることくらいだ。時間がしっかりしていれば私がどれだけポンコツでも適当にいい感じにうまくやってくれるはずである。けれど私は弱いから先人の歩んだ道が知りたくなって蘇東坡のウィキペディアのページを読んだ。この人も異動が大変だったんだな~~~~という気持ちになり、うまい東坡肉が食べたくなった。私には中心でおらつきたい気持ちが相応にあると同時に、光の当たらないところに行って静かにしていたい気持ちが同じだけある。ちなみに唐突に喧嘩を売るがどちらか一方だけの奴は私は勝手にうんこ野郎認定している。その理由は各自考えていただきたい。そして今、私の異動先は知らないところで決まっているんだろうけれど、告げられるまではわからないから私は宣告の日までどちらにもなりうるし、なんにでもなれる。ただ何かを選び取る気力があるかというと、気持ちがあるだけである。ただ今は、こうして自分の生活が何も決められないし何もわからないなあああという時間を大変愛おしく思っている所存であります!!!!――きっと満足のいく角煮が出来上がるには人生をもう何週かしてこんなことで迷わないようにならないといけないのだろう。ところで蘇軾さんは地方にぶっ飛ばされたとき悩んだのだろうか、中央に戻れと言われたときいろいろ考えたのだろうか。今となっては誰も立証できないようなすべてがふわふわした問いはきっと老酒で何時間も煮込んでできたものなのだろう。私が考えたわけではなく何となくやっているうちに自然と辿りついていたことにしておきたい。今は結果だけに責任を負えばいいような気がするから、それと使命感でどれだけでも動けるような気がする。

今日はめっちゃ社会が動いていた

今日は自分でも信じられないくらい社会が動いていた。すごい速さで動いていて、思わず熱が胸に騒いでしまった。家に帰って豚足をゆでてみたが一ミリもおいしくない。豚足にゴマダレをつけて白酒で、と思っていたがそんな気分にもならなかった。明日は寿司屋で貝の刺身でもつまんだあとに劇場版ヴァイオレットエヴァ―ガーデンでもレイトショーで観たいと思う。最近貝の刺身が一番おいしい。貝の刺身を食べると昔見た景色を思い出す。北海のグレーの海や、ギリシャの緑の海、小笠原で見た黒と言ったほうがいいような深い海。そんな風景というよりは時間かもしれないが、思い返してはインターネットの海に溶けだしたいという自分勝手な思いが波のように押しよせては引いていく。

かつて上司だったけれど今は仕事のカウンターパートになった人がハラスメントで懲戒をくらい、近々いなくなるそうだ。今朝執務室に来ていたその人はなぜかいつもよりも小さく丸まっていた。声をかけようとしたら、いつもへらへらしている人事たちに個室に連れていかれる場面に出くわしてしまった。その人は人間として最低だったと思うし、許すことはできないと思う。私の同世代の人は何人もその人に叩きのめされ、立ち直れなくなった。私の心身のバランスが崩れるきっかけを作った人はこの人であった。心身は相互に連関しないということをその人は教えてくれた。これほど心身二元論とかそういう現代文の適当なキーワードについて丁寧に説明してくれることはなかった。ところでその人が作る決算書類は思わずため息が出てしまうほど美しかった。もし数字には意味があるから価値があるのだというのであれば、その人が作る数字はどこをとっても相互に関係し、全ての数字が他の数字を説明していた。私が聞きたいと思っていたことはすべて、その人ではなくその人が作る書類のほうが雄弁に語っていたのだった。価値ある数字という我々が追い求めている模範のようなものを難なく作ることのできる人だったと思う。

もう一度言うが、私はその人のことを許すことはできないと思う。今でもあの時を思い出したいとは思わないし、詳細に思い出そうとするとどうしても唇が震える。それらを全て水に流して日々の仕事を一緒にしようとするほど、その当時のことがフラッシュバックし、私が患ったものの本質はPTSDのようなトラウマによる障害だったと気づかされた。そして今日、これまで心の底ではきっと待ち望んでいたであろうことが起こり、しかもそれに立ち会うことができた。しかしどうして心は晴れないのだろう。詳細を聞いたとき目前の仕事に一切集中することができず、思わず笑顔になってしまったが、さりとて今の私が抱える業務と問題は一ミリも変わってくれなかったし、私が自席でかなり大きな声で独り言をつぶやいたとしても、私に同情してくれる人は誰もいなかった。

しかしその事情を知る人に話をすると誰もが、今まで言えなかったことを容赦なく語りだした。噂には聞いていたでしょ、いずれこうなる運命だった、あらあなたはあそこの生き残り、もっと早く罰せられてくれていれば……私もこうして脚色を交えながらもここで話しているから同罪ではあるけれど。判決が確定し自分に危害が加わらないことがわかったときの悪口ほど楽しいことは無い。そして噂は千里を走り、風をあつめてあることないこと交えながら伝わっていくのだろう。現場を知ることが貴いのは、現場がそれらの怪しい情報を一切ものともせず確かな体験を与えてくれるからだろう。私はかつての同僚、私よりもかろうじて確かに心身を保ったもののその人との勤務によって20kg近い体重変動があった同僚に思わず連絡を取りたくなったが、潔白というよりも自分の保身から、打ち込んだ内容を消しては打って、打っては消してを繰り返した。結局連絡することもなく、それとは全く別件で今の上司と自分のキャリアについて話した。私はこの業務に向いていないし、もう成長の幅がなくなってきて、端的に言えば荒れていると伝えたが、それならこの仕事をあなたの10倍以上やっている私はどうなるんだと一蹴された。どこまでいっても自分のことは自分で決めないといけない。

やらなければいけないことがあったのに、先輩が空港の閉鎖によって職場に帰ってくることができなかった。それで私や、私の上司のイライラも募った。刃物を持った人が空港にいたから閉鎖になったそうだ。執念は人を巻き込む。今就活で、人を巻き込んだ経験はありますかと聞かれたならそう聞いた面接官に思いっきり書類を叩きつけ、椅子ごとひっくりかえしてやるだろう。そしてお前が怒り、お前が私について語り、それを上司や同僚や恋人や恋人がその両親に話しそれがインターネットの片隅を賑わせるのなら、これ以上に人を巻き込んだ経験はないだろう。何の話がしたかったんだっけ。理不尽に何かに巻き込まれた人は騒ぐことができても騒ぎをコントロールすることはできないということだっけ。祭りか?

それに関連して、折しも友人の退職エントリーに類するものを見かけた。多くの退職エントリーにあるような現実への反発や自分の正当化はなくて、憎しみや負のエネルギーに触れることについて訥々と語られていた。私もふとそのことについて考えてしまった。憎しみや負のエネルギ―は恐ろしくて、扱い方を間違えると一瞬で奪われてしまう。自然相手のスポーツでもしているように、それらと対峙することは緊張感に溢れているから、緊張が切れると一瞬で足元をさらわれてしまう。すると足がつく場所まで流されていく他はなく、つまりどこまでも自分もその人を憎み続け、その感情の流れが穏やかになるまで待つほかはないのだろう。傷は治っても傷跡は消えることはない。私が今日感じたものはすっかりなくなったはずのものがまるであるかのように感じられる、いわば幻肢痛で、傷は治っても傷跡は消えないという母の教えのとおりのことだった。友人が受けた傷の深さを思った。そして数万人の計画を無為にしてしまうような人の執念を思った。今日生きる意味を私が探している間にも周りにはとんでもないエネルギーがうごめいていて、エネルギーとともに生きている人がいて、私はその事実にまた頭がクラクラするような気がした。ここで書いたことはすべて一つのことからおこっているはずなのに、そのことに迫ろうとするとどうしてこうも届かないのだろう。

豊饒の頃には

快速列車が停車する駅からタクシーで20分ほど山を登ると、急に視界が開ける瞬間がある。遠景に団地群が見えて、バカでかいクリニックやよくわからない熱帯魚屋さんが車道沿いに現れる。やけに白みがかった戸建ても敷地を持て余した施設のすぐ近くにポツリとたっていたりする。どこにでもあるような開発された街の香りとでもいうのだろう。歩いている人はあまりいない。寂しさにも似た静けさは車内からも明らかで、かつてここに何かを作ろうとした先人たちの挫折に思いを馳せざるを得ない。ここに何かを建造したとして、何かが変わるのだろうか?自分のしていることに価値や意味はあるのか?私も後世に笑われるのだろうか?揺れる車内にいると、もう何度考えたかわからないことをいつものように考えてしまう。

何度やっても同じ運賃を払い事務所に着くと、ここも負けず劣らずの重苦しさに包まれている。何をしても無為に終わり、耐えることが目的となった人たち――私も含めてがここには集まっている。藁をも掴もうとする人たちの強欲を見ても何も感じないようにしている。ここは常人がいる場所ではない。このゲートをくぐると誰もが何かに憑かれたように醜くなるだけである。彼らがこのゲートを出たとき、例えば家に帰ったら帰った先できっとそれぞれの役割を演じている。そう信じている。なけなしの脳みそで思考したことを信じることが自分を保つことであるだろうが、それ以外にも自分が自分であることを確かめるための瞬間は確かにあって、それはここに来るとわかる。何も言わずに机に電卓と伝票を広げ、症例から聞きたいことを機械のように引き出す。たとえ機械的でも、そのプロセスを回す瞬間は、私は紛れもなく私である。プロセスさえ踏めれば、どこかの誰かが言ったように私は、望みとあればどこへでもかけつける話し相手で、道化で、詐欺師なのだ。そんなわけあるか。

実は(誰のせいでか)事務所に閉じ込められていたので、まだ一度も現場を見たことがないから、案内してもらえないかとお願いした。それではこちらへと言われ案内された車は身を折りたんでも入れないほど狭く、洗濯物にでもなったかと思うほど揺らされた。壁でも登っているのではないかと思うほど急な斜面をタコメーターは2時くらいを指しながら登っていく。後ろからあがる砂埃で前が見えなくなるほどだったが、ここ最近雨が降らないからこの砂が大変なんですよ、どれだけ水を撒いても焼け石に水でねと運転をする役職者に言われる。山の頂上についたときには、その見晴らしの良さよりも砂埃にむせかえってしまった。何十台という重機が地面を掘っている。金脈でもあればよいのになと思うが、掘るほどに出てくるのは想定外の岩ばかりで、想定外の岩は金と時間と希望をヒルのようにうごめきながら私たちから吸い尽くしていく。

この砂埃だと口をハンカチで覆うほかにないが、そこで作業する人たちは一切そんなそぶりを見せない。全く日焼けしていない青白い肌の私たち(その日、私は上司と来ていた)はここでは見られる対象だった。私たちは来た道を車で戻る。ふと気づくのは、私たちが仮設道路を通るとき、誰もが道を開けて直立してくれることだ。私たちが車を降りるとき、誰もが作業を一度止める。私たちはエアコンの効いた車内から軽く会釈をする。私たちを案内したおんぼろ車はたった1時間程度の巡回で砂塵にまみれた。公道に出るための車両洗浄スペースに車をつけると、車以上に砂塵にまみれた壮年の男たちが車に高水圧の水をかけていく。水が車体を削り取る、耳に詰まったような音を反響させる車内から彼らを見た。私は何をしに来たのだろう。雷に打たれているような音が車内に響き渡るが、私は相変わらず後部座席で小さくうずくまりながら、上司と偉い人の世間話を聞いていた。

私は通勤用のスラックス5着で1週間を回している。朝は一番左から取り、帰宅したら一番右にしまう。自分の行動によって曜日を定義することができるというささやかな喜びを味わいながらも、次の作業を考えてるうちに1か月が経ってしまう。時間が早く感じられるのは変わりばえのしない日常の中に自分がいるからだろう。だから想定外に出くわすと、まずいらだってしまう。奥に詰めろ、電車の乗り方も知らないのか君は何年社会人やってるんだ、とかつて言われたようなことをそのまま言いたくなり、私も晴れて次の世代にバトンを託していく世代を代表する優秀なランナーの一人になれたのだと思い、何とか自分を肯定してみる。はじめての現場見学に膝から崩れそうになる疲労を感じつつ、仮設事務所の便所の窓から外をのぞくといつもの水田が見える。水田は私が想定した通りのプロセスで実りを迎え、まさに収穫されようとしているところだった。水田が実ることにはすべてが終わっているだろうと思ったこともあったが、実際は何一つ手についていない。それでも稲は自然と収穫の時を迎える。そしてそれを、私が全く知らないところで全く知らないように生活をしている人が収穫するのだろう。私は何かを再び信じるには、自分の大切なものを奪われすぎたように思う。豊饒の頃にはまた会えるのだろうか。私がどうなっていてもきっとまた来年も実りを迎えてくれるだろう。この文章は既にその稲が刈り取られる前から書き始めていたものである。収穫は私の文章の完成を待ってはくれなかった。