なんとなく何かを失ったような、名状しがたい悲しみのようなものに今夜は囚われていて、それをお送りする。言い尽くされているけれど、社会は混乱している、いや、社会というものが何を指すのかももう分からなくなっている(これはそれ以上に言い尽くされている)。私には家族がいて、会社の人がいて、数人の毎日やり取りする友人がいて、ネットでだけ発言を追っている人がいて、その昔仲良かったんだけど直接会って話すようなことが無くなって5年近く経つような人もなぜか情報はネットで追えている。家を出れば職場まで誰とも話すことなく、職場に行けば面倒だけどいつもどおりの労働があり、同僚がいて、下らない雑談と下らない事件に少し心を動かすけれど、やはりいつもどおりの労働があって、それは少なくとも数年前よりは愛せるようになっている。しかしその職場の足元では私にはすぐ理解できないものになんでか分からないけれど怒っている人がいて、その人に賛同する人たちも時折いて、それを見守るお巡りさんたちがいて、けれど怒っているのにどこか間抜けていて、こうしたこともいつもどおり行われている。ネットでも新聞でもただどうしようもないという事実が淡々と報告されていて、その解釈はお茶の間に委ねられているけれど何となく強制されているような感じがして、お茶の間でも液晶の向こう側でも誰もが自信ありげに話しているけど、誰かに何かを決めてほしいような顔をしてるように思える。私にとってこれらは、すべてが当たり前にありすぎるけれど、実際想像していた社会とか日常ってのはこんなもんだったっけとトイレにいるときとかに考えてしまう。私にとってこれが私の全てだろうけれど、皆は何とつながっていて、何に属しているんだろう。

中学の時に音楽のブルース様式について少しだけ授業があったのを覚えていて、詩が3段構成になっているのが特徴だとそのブルースのオリジンとは全く無関係そうな先生が言っていた。「私は悲しい/私は悲しい/だから起きることができなかった」という詩をその場であげていたが、それがとても印象的だった。この時受けた印象の説明は、説明するときの年齢や関心事項によって変わってきたけれど、今この詩から受ける印象は、そのような構成の様式が広く受け入れられていたことがにわかには信じられないというものになるだろう。

私が日々を送る中で出会わない人たちに会った時、どんな話をすればいいんだ。課題達成的でも情報共有的でもない話というのをできるような気がしない。文脈があるからこそ伝わるのであって、それを外れて伝えられることなどないんじゃないか。何を話しても説教臭くなってしまった。自分が間違わない前提で話しているし、間違えたとしてもそれは誰かが正すものだと信じるようになっている。言い方ってもんがあるだろうと入社して間もない頃に怒られたことがよくあった。それなりに気を付けているつもりでも、相手にはこちらの意図したとおりに受け取られていない。こうしたときに否応なく自分の周りにいた人たちと目の前の相手が同じ会話の様式を共有していないということに気づかされた。そこからはどちらを選ぶか、選択の問題であった。

別にそう思ってるつもりはなくても、かつての友人たちがうらやましく思えてしまうときがある。住んでる家やふるさと納税の話だけじゃなく、どんな仕事をやっているかとか、可能性とか、そういったことすべてが時折うらやましくなる。嫉妬は醜い感情。しかしだんだんと、今の日常を続けるということも選択の結果となることが身に染みてわかるようになってきた。何となく皆が横並びで、何となく目指しているものも一緒のように思えていたけれど、そろそろ本格的にそうじゃなくなっているということに気づかされる。そして今、そうした道を分けた人たちとどうすれば分かり合えて会話することができるか、願わくばつながることができるかということに対して、全く自信が持てなくなっている。かつてそれができていたからそれを失ったように思えるのかもしれない。失ったことばかりを思ってしまう。だから私は起きることができない。