同僚

休んでいる生活が日常になってきた。休む前,そして休んだ当初がどれだけおかしい状態だったかということがよくわかるようになった。

ひとつ大きな勘違いをしていた。うつはそもそもの心が弱い人が現状を受け入れられず拒否してなるような病気で,肉体的にも元気でノリが良ければ大丈夫だと思っていたが,それは一面的だった。何かを拒否するということ自体ができなくなる。拒否とは何かに対する働きかけであり,その働きかけ自体ができなくなるのだ。働きかけるものも,しようとする起点も見つからない,つまり自分が,ものがどこにあるのか全く見つからない。そしてそれは元気やノリだとかとは全く無関係になってしまう。確かに現状を受け入れられなかったり何かがおかしいと思うことはこうした宙づりの引き金になるが。

休みの間,何かあるたびに部長に連絡することが義務付けられている。何かあるといっても診察の経過だったり,薬の量が変わっただとかそんなことでそれ以上は特に報告していなかったが,そんないつもの報告をしたら昼食に誘われた。出張ついでに家の近くまで行くから,なんでも好きなもの食べていいから,下に降りてきなさいと言われた。もちろん職場の人に会うのは気が引ける。

その前の日の夜,同じ課の同僚たちが訪ねてきてくれた。もちろんこれも気が引けたが,ホルモン鍋ということもあって勇気を奮って外にでる。仕事が残っているにも関わらず飲みに連れ出されたいつもの夜という感じがした。しかしかつて感じた緊張がなかったのは,彼らといることに私が緊張を感じなくなったからかもしれない。いつごろ子供が欲しいか,いつ結婚するか,どんな車が欲しいか,いつまでにゴルフで120切れるようにするか,そんないつもどおりの話があった。それすらもありがたく,むしろそれ以前にどんな話なら楽しかったかふと考えようとするも情けない空振りをして,その瞬間が幸せに思えた。ひたすらずる休みだ,休みを楽しんでやがる旅行にでもどこでも行きやがれと言われながら食べる鍋は悪くなかった。ただその日の昼,産業医面談のため出社した時に新入社員時代の教育責任者に会ったことがどこかで引っかかった。

この時を振り返りながら玉露を淹れて改めてその風味に驚くけどある夜学生時代の友人と会社の後輩とカラオケにいったときに皆で歌った曲が流れ,そのときのことを思い出す。そのときの何気ない場面が突然蘇るとそれがさも意味があった瞬間のように思えるが別にただひたすら飲んだあとにくるりを歌っただけではないかとも思う。得てして自分を振り返るとき,起点にするのはこうした場面だったりするからたちが悪い。

そして部長を最寄りの駅まで迎えにいって,この殺人的な暑さが殺人的だということ,会社のみなさんは変わりないかということだったが,前者に対して返事が適当になるのはさておき,「部のみんなは頑張ってるんじゃないかなあ,でもよく働くねえ」と後者に答えられたとき力の入れどころがわからなくなった。オタクの早口のように地元の割烹居酒屋を案内し,上から2番目のランチを頼んだ。

この病気は説明が難しいこと,今こうして話したりしているけどダメな時は本当にダメだ,回復と復職は違う,だとかそんな話を一方的にしてしまうが部長はその話を聞くことで安心させようとしてくれた。かつて飲み会で,社会の,つまり相手がある物事のすべてはいかに相手を立てるかにその成否がかかっているのに自分ばかりを押し通すから何も物事が進まないと叱られたことには理があった。そして私の話の残弾が尽きたときに出された替えの弾倉は,人生において様々な機会があるけれど,普段は自分が自分について振り返る暇がないからその機会に気づかないけれど,その暇があるときに見つけた機会というのは転機だから大事にしたほうがよいと言われた。不思議とその言葉は腑に落ちて,いや実は自分は本当は作家とかライターとか,そういうのになりたかった,この会社でこんなことをやっている理由がわからなくなったときに方向がわからなくなったとなぜか話していた。それなら部をあげて応援する,完全回復して戻ってきてくれると信じていると言われ,食後のコーヒーがなくなったので水を飲みおしぼりで3度ほど指先を拭いてから部長を改札まで送った。

宙づりの状態は波がすさまじい。普通に歩けるときでも突然,何しようとしているのかわからなくなることがある。けれどこれだけ休み,そして薬を飲む中で回数が減ってきた。心が強い人なんて誰もいないが,ではどうして自分はこうなったかと探求心が自分に向くがそれが一番危ない。ここ数日でアニメ版エヴァをすべて観返し,返し刃で観返した「桐島,部活やめるってよ」にも同じような何かを見つけてしまった。このことは改めたいが,何より考えを筋道立てて説明できる気がしない。ただ不思議に思うのは,同僚だって部長だって私と同じように,くるりを歌った夜があるはずで,ではそこから今いるところに一本の線を引けないとき,今いるところをどのように説明しているのかということで,逆にそこにこそ今の出口みたいなものを見出さなければならないのだろうけど,残念ながら玉露も4煎目となるとただの渋さを感じるだけになってしまい,1時間近く集中力が持続したという記録をもって筆をおかざるを得ない。