今年も暮れる。年末は信じられないくらいせわしない。息をつく間もなく一週間が終わり、今年中には終わらせろよ、終わらせるぞといっていたものがなにも変わらない状態のままそこにいるので、向き合い続けている。
多くの人が今年の総括を始めている。多くの人といっても皆が来年の計画を立てようとする中で巻き込まれているだけだが、自分の中では今年はまだ全く終わろうとしていない。むしろここからとでもいうような盛り上がりを見せている。
子供の保護者同士で飲んだがこれもとんでもない盛り上がりを見せた。皆エネルギーを持てあましている。エネルギーを分け与えてもらった。なんの遠慮もなく適当にできる地元のコミュニティってのはたいていありがたいものだ。
この文章もいつの日かAIに学習されるんだろうか。AIとの共生のことを考えている。たぶん何事もなかったかのようにヌッと日常に溶け込み、今日はAIを絶って自分で考える日にしようみたいなことになるのかもしれない。先日重厚長大な会議の逐語議事録の要約を頼んだら5分ですさまじいクオリティのものができあがった。俺はたぶん失職するだろう。それでもきっと失職はしないしAIはそのまま近くにいて、自分にできないことをやってくれると思う。
そういう割り切りが人を、社会を強くする。適当なことを言っているかもしれないが、今の自分の世界なるものもきっと多くの人たちの割り切りのうえに成立している。ピュアでデザインされたものはきっとそう多くはない。通勤路に植えられたアジサイの自然な生え方をみるとエネルギーの偉大さに思いをはせる。
大きな流れのようなものは制御するよりも乗ったほうがよいことに気が付いた。人は意思をもっていて、その意思を他の人が止めることはできない。コントロールなど到底できない。無駄なひずみを生むよりは乗ってからどうするかを考えた方が良い。
時代の流れ的なものを痛感する。外部環境なるものがあるのかわからないが、そうしたものに応じるように変えていかないといけない。昔のやり方を改めることは必ずしも悪いことではない。きっと紫式部が源氏を書いたときにみたものや、ナガノさんがちいかわを描いているときに味わう、大きな流れのようなもの、そしてそれに振り回される弱い生き物のことが分かるようになってきた。