サンテミリオン

年が明けていた。年末も年始も休息にかこつけてひたすら食べて飲んで遊んでとしていて,その疲れが今になって身体の節々を締め付けているように思う。前かがみになると腹がつかえるようになった。腰掛けるときにも足の筋肉を意識するようになっていて,時間の重みを徐々に背負いこみはじめたように思う。

年末年始の話を少ししたい。

ミクシィフェイスブックが全盛だったころ(今でもきっとそうだろうけど),よく一年の総括と来年の抱負を書いていた。今それをやるのが少し気恥ずかしいのはこの先どうなるかが何となく見えているからだろう。崩壊しゆく祖国を一人で立て直すようなことを目標として掲げても,それは目標というよりは価値観の表明であり,それを実現するには小さなことを積み上げていくしかないということが今はわかってしまったと同時に,そうした小さなことを積み上げることに夢中になれる気力が自分にはないことに気づいてしまった。志を高く掲げる人たちをみてどこか遠い存在のように思えてしまうと同時に,まともに取り合わないようにどこかで見ないようにしていることに気づくが,まだ気づいているだけマシだろうと無理に納得させる。そうするほどに開いていった距離だとも言えなくはないけれど。

旧友たちと久々に会う楽しさと,気の知れた同僚と行く気晴らしのゴルフの楽しさの間に差があったとしても,楽しいことに変わりはない。話すことは尽きず,相手にわかってもらおうとしなくても会話が成立するような環境は心地が良い。年末年始はこうした楽しい時間と人たちに恵まれた。気づくのはそれはある程度の背景や考え方が共有されているから成立するということであり,こうした背景にあるものは話し合えばわかるということであったり,agree to disagreeというようなことであったり,知的好奇心の優越というようなものだろうか。

もし十年や二十年と経ったとき,果たしてこれらはそれでも私たちを結びつけてくれるのだろうか。かつて音楽番組があって皆がそれを見て,ロックといえばロックミュージシャンのアイコンがあり,バンドマンというと前が見えないくらい重たい前髪と折れそうなくらい細い身体の奴らがテレキャスをひっさげて歌っていた。そして今,彼らのような人はいなくなってしまった。いるのかもしれないが,私の周りにはいなくなってしまった。それに夢中になる人も,誰もが歌えるあの曲も,私の周りからなくなってしまったのだ。遠ざけたのだろうか。

年末は家族で過ごした。大晦日の夜,家族ですき焼きをしていた。昔は母の実家で一族が集まってやっていたのだが,祖父母の容態の悪化によってとうの昔に廃れてしまった。私がここ最近ワインをよく飲むということもあって,父親が飲みたいと押入れの奥で保管していたワインを開けて家族で飲んだ。

父はボルドーのワインが好きだと知っていたが,この年末の発見は,その好みはサンテミリオン地区のワインに絞られていることだった。そして年末も例外なくサンテミリオンメルロー主体のワインだった。どうしてか私もメルロー主体のワインを好んで手に取るのはこうした影響があるのかもしれない。スムースというかベクトルが内を向いている印象が好きなのだ。酒を交えて久々に家族で話すとやはり将来や来年以降どうするかという話になり,意図せずとも食卓にはどうしても力が入る。こうした力の入り方にどれほど自分が苦しんだかということが今ならある程度わかるが,かつてはそれが自然で,そうした大きな困難と一致団結が食卓を一つに結び付けていたのかもしれない。しかしてそのことは父がサンテミリオンを好む理由を何となく考えさせた。そして両親からは,年齢には抗えない衰えを感じるようになった。もう私も良い年齢になったということかもしれない。衰えは自分にも同じように生じているのだろう。

比較的年齢の近い同僚が,事務担当者の書類の提出の仕方がなっていないということにそこまでするかというほどに怒っていた。仲の良かった先輩との雑談は誰が役員に一番近いかという話ばかりになった。そうしたことに夢中になれない自分がいるが,夢中になるべきものを切り捨てていくうちに,この先の時間はただの消化試合としてしか現れなさそうな気がする。何度このことに言及しただろう。自分以外とは共有できない感情にしがみついても,自分すらにも無関心であろうとしても,さらにはその対立を読み解いたとしても,消化試合であることには変わりないのだとしたら。生きていて何が楽しいのか,という誰が言ったともわからない言葉に仕込まれた精巧な罠の恐ろしさを知る。

ギターを「ジャーン!」と鳴らして,かっこいいコード進行とかっこいい歌詞で歌を進めていくような人たちはどこにいったのか。今,それほどに心を動かすことができるような人たちはどんなことをしているのか。チェケラッチョやマジ感謝に代表されたヒップホッパーたちの姿も見えなくなった。当たり前のように私の中にあるイメージは,本来は常に修正されるべきものなのかもしれない。