感想:打ち上げ花火,下から見るか?横から見るか? について

映画「打ち上げ花火,下から見るか?横から見るか?」を観てきた。なぜか酷評されまくっているが,非常に好きな映画だった。感想文を書くのは苦手だし本ブログの領域外とも思うのだが,恥ずかしながら記録に残してみる。夏休みの読書感想文も思えばこのくらいから準備していた。

ところで,この作品にそもそもの元ネタがあったことは観た後に知った。ノベライズ本もあることもそのとき同時に知った。いずれも手に取れていないのは恥ずかしい限りだが,そのためあくまで映画としての感想記録になることを了承されたい。以下,詳細設定の説明は割愛,ネタバレは当然のものとしていきます。改行しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

0.

一般に花火大会というと,場所取りのブルーシート,夏の縁日の薫り,そして待ち望んだ花火が上がった時の喧騒が思い浮かぶ。中学一年生の夏休み,今までそこまで意識していなかった異性の影が大きくなり,思わぬ浴衣姿や名前も知らない髪型に戸惑ったりしたことがあったか忘れてしまったが(!),そんなことがあったらとふと想像を膨らませてしまう。

本作はそうしたあるはずもない「ある夏の一日」を求める大人たちの情緒に応えるべく,青春の一場面を切り取って「アニメならではの映像美」を駆使してきれいな花火を見せてくれるものかと期待していた。ところがその期待は裏切られる。誰もが思い浮かべるような,夏の余韻に満ちた花火は本作においては描かれないのである。

 

1.

主人公・典道はその友人たちの「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平たいのか?」という議論に巻き込まれる。火薬が爆発するからどこから見ても丸いという意見と,偉い人が平たいといっていたからという意見がぶつかるが,本当のところは誰も知らない。それを確かめに行こうというところから物語は動き出す。

この「丸いのか?平たいのか?」という疑問は作中再三繰り返される。確かに,空に咲く花火を見るとき,見る者の視点はある点に固定されている。しかし,もし見ている「その」視点とは別の「ある」視点から花火をみることができたならば,それはどのように見えるのだろうか?

 

2.

花火は,別の視点では別の姿を見せるのだろうか。一般化して,ある対象がどのように見えるかは,視点の選択に左右されてしまうのか。例えば円柱は真横から見れば四角形だが,真上から見れば円である。別の視点を想定することは容易いが,それぞれの視点から見えるものをすり合わせて一つの実像を作り上げるのは,それほどに簡単ではない。

典道が玉を最初に投げる前の世界には,若干のぎこちなさがある。頻繁に繰り返される「そんなこといったっけ?」というセリフ。典道が競争に負けた理由をなずなに伝えたとき,「全部私のせい?」と明らかに大げさな反応をするなずな。なずなが母親に連れ戻された場面に現れた祐介を理由なく殴る典道。ぎこちなさの理由はおそらく,「どうしてそうなるのか」,といった因果関係が作中で一切説明されていない点にあるだろう。場面間,登場人物間が切断されている。ある結末に向けて,因果をつなげてストーリーを進めていくという推進力がない。観客は登場人物の行動理由を想像するしかないにもかかわらず裏を取られるため,わからなくなる。

この世界では,物事を明確に説明してくれる語り手や既定路線は不在で,本人の意図に反して受け取られてしまう言葉,思いがけない裏切り,どうしようもない不条理にあふれている。この世界での出来事は,視点によって全く異なる出来事として存在するのである。誰もが納得するものは存在せず,根本的に分かり合うことができない。そんな他人から作られる世界で打ちあがる花火は,平たいのではないか?

 

3.

この作品では,なずなが海で拾ったという玉が重要な役割を果たしている。典道いわく,「もしもあの時」を想定してそれを投げるとき,「ぐにゃ~~」となったのち,「あの時」の場面が広がっているそうだ。このことをどのようにとらえるべきか。

玉を投げた後の世界で描かれるものは,投げる前に描かれるものと微妙に異なる。スプリンクラーが動く向き,なずなの教室への入り方といった点で違いがある一方,祐介が言っていたセリフを典道が言っていたりと,共通するところもある。このことから,玉を投げる前の世界と投げた後の世界に一切の関係がないとは言えない。

この考察にあたって重要と思えるのは,競争で祐介ではなく典道が勝利し,なずなと花火大会に行くことになったシーンである。玉を投げる前において,なずなが祐介を誘うとき,「好きだから」とその誘う理由を伝えていたが,典道のときには理由は伝えられていない。典道を誘うときになずなが伝えたことは,玉を投げる前に典道が祐介から聞いたこと以上のことは何一つ語られていない。このことから,玉を投げた後の出来事は,典道の持つ情報量に限定されているといえる。

さらに,祐介はなずなが「本当に好きだった」のだろうか。玉を投げる前,祐介は典道になずなへの好意を語っている。しかしそれは少々演技じみていて,むしろ祐介は典道となずなが二人でいられるように尽力し,親友を応援しているような印象すら受ける。中途半端な祐介の態度を,祐介の好意は本気だったと観客が決定できるのは,嫉妬に燃え,典道へ一切の配慮を見せない恋敵として現れる様子を見てからである。ところでこれは玉を投げた後に現れる祐介である。そして玉を投げる前の典道は,花火大会のために家を出る場面に見られるように,祐介のなずなへの好意を本気のものとしてとらえていた。このとき典道が祐介に対して抱いた像は,玉を投げた後の恋敵として現れる祐介に酷似していたのではないだろうか。ここでも玉を投げた後のことは,典道の持つ情報に限定されていると言える。

こうした点から,(のちに「典道君の作った世界」と作中において語られるとおり)玉を投げた後の場面は,典道が持っている情報をもとに典道が再構成した「もしもif」の世界であると私は考えている。さらにそれは,典道が玉を最初に投げる前の世界には一切影響を及ぼさない(いわゆる「ループもの」のように同一時間軸上の過去に戻って未来に影響を与えるというような効力の一切ない)世界だと考えている。言ってしまえばあの玉は,典道の空想の世界に観客を引き込むスイッチのようなものだと考えている。この作品は,典道の空想の世界を旅するものであり,ある結末を回避するために同じ一日を繰り返すようなものではない。以後,最初に典道が玉を投げる前の世界を基底現実とし,以後の世界を仮想世界と呼ぶことにしたい。

 

4.

家出を試みたなずなが母親に連れ戻される場面を目の当たりにした典道は,彼女が母親に連れ戻されない世界をまず想定する。恋敵と母親から逃げるのに失敗するたび,その失敗のない世界を想定する。こうして典道が作りだす仮想世界は,次々に重ねられていく。

ところで,ある和音――たとえばドミソの音を同時に鳴らせばCの和音――にその非構成音を加えていくことによって,その和音のもつ響きは広がり,描く世界を広げることができる。しかし非構成音がいくら加わろうと,その基調となる音はドであるように,空想をいくら重ねてもその礎になる現実は変えることができない。

たとえ基調となる音が変わらないにしても,和音に非構成音を規則なく幾重にも重ねていくと,それは不協和音となってしまう。確かに仮想世界を重ね,なずなが連れ戻されない結末までたどりつくことはできた。しかしどこにいくのかは「わからない」。終着点がわからず規則なく重ねられた典道の仮想世界は矛盾にあふれ,不協和音が響きだす。仮想世界は重ねども,空虚さしかもたらさなかった。

 

5.

ある試みが空虚だとわかっても,それでもそれに意味があったというには,試み自体を正当化しなければならない。楽しみにしていた旅行が大雨で台無しになったならば,その旅行に向けて準備したこと自体が楽しかったと納得することでしか,その準備に費やした時間は供養できない。

仮想世界を重ねていく試みが空虚だったとしたなら,その試みの中で過ごした時間,試みの中で得られた体験こそに意味があったと言わなければならない。何の解決にもならない逃避行を終わらせるにはどうするのか。電車が海の上を走るまでにいびつな仮想世界の海辺で典道が確信した,なずなへの,そしてなずなと過ごした時間への思いは,変えることのできない基底現実への自分の無力を露わにする。この事実を前にしてなお,試み自体に意味があると言わねばならない。物語が結末を迎えるためには,一つの転回が必要になる。

 

 6.

先に述べた疑問に戻る。花火は丸いのか?平たいのか?

もし花火がどの視点を選んでも丸く見えるのであれば,それはどんな人がどこで見ても丸いというだろう。一方で基底現実として描かれるこの現実世界は,言葉は一人歩きし,不条理は必然のように現れ,それらを説明してくれる誰かもいないような,いわば完全に分かり合うことのできない世界でもある。そんな現実において,一切の異論を認めないものは,ある意味では完全で,絶対的なものであるともいえるだろう。ではそれは?

すべてが思い通りに構成された仮想世界は,なずなが「次いつ会えるか」を典道に尋ねたのを最後に崩れていく。この崩壊は典道の試みの放棄を意味する。しかしそれは消極的な文脈ではなく,むしろ積極的な文脈において行われる。仮想世界においてともに過ごした時間それ自体に意味があったものとして意味が与えられるのであれば,むしろそのままにそれを保存することである。そして世界が崩れる最後の瞬間,二人は抱擁を交わし,花火が祝福するかのように二人の上に降り注ぎ,物語は幕を閉じる。二学期が始まるころにはなずなは転校してしまっている。

この典道が描いた美しい「もしも」の世界は,あまりに都合よく出来すぎている。しかしその都合のよさを指摘して彼を非難することは誰にもできない。たとえその仮想世界が基底現実と矛盾していると非難したとしても,それは描かれた世界を,そしてその世界における経験を揺さぶることには必ずしもならない。この意味で,典道の描いた仮想世界とそこでの経験は,それを放棄し保存することによって,どこから見てもそう見える,完全で,絶対的なものとなったといえるだろう。それらは典道にとっての「ひと夏の思い出」として確固たる地位を占めるのである。

分かり合うことができない世界において,唯一絶対的なものとして存在するのは,ある現実に「もしも」を重ねて作り上げた想像の世界と,その想像の世界の中で生きていた人たちなのではないだろうか。いつのことかわからない「ひと夏の思い出」は,どれだけ時間の作用を受けて美化されていようとも,それはこの先も折につけ蘇り,私を見つめ,問いただすのだろう。

 

 

00.

 

ところで実際のところ,花火は丸いのか,平たいのか?

盆に祖父の家に行って花火大会を見るのは,我が家の恒例行事だ。各地に住む親戚が集合し,マンションの一室からではあるが,まさに花火を目線の高さでみる。まさに「横から見る」というやつである。そして今ではビールと枝豆をベランダに用意して,花火よりも親戚が集まることを肴にしているようなところもあるのだが,花火自体は,私が子供用椅子に座ってみていたころから劇的に変わっているはずはない。

崩れゆく世界で,典道がなずなと別れる前に見た花火は,(理解が間違ってなければ)海の中から,下から見上げている。ところがそこで描かれる花火は光の屈折を受けてかにじんでしまい,とらえられるのは解像度の低いものである。しかしたとえその輪郭がぼやけていようとも,明らかにそれが正しい花火,その夏のクライマックスだということがわかる。

しかし花火を正しく描こうとしてみると,それがあまりに難しいことに気づく。花火らしい花火はどんな形だろうか,光が見えたと思ったら消えて,そして驚きから解放された後に,間の悪い発言のように腹に響く音がやってくる。そこにあったことは確かなのに,どんな形だったかは一瞬のうちに忘れてしまっている。瞬きの間に消えてしまった花火の形を思い出そうとするとき,それは「もしも」の世界で作り上げている像なのかもしれない。