どうしようもない疲れ

久々に更新する。この時間にこうして家にいて、自分の時間が持てるということに感謝したい。

かつてどのようなことを思って記事を更新していたのだろう。記事を書くとき、確かに誰かを想定していた。それは自分と同じような境遇の人だったり、育ちや価値観が近い人だったり、要するに今いる場所に満足がいっていないような人たちだ。彼らを勝手に同志と思い込んで、その人たちに見てもらえるようなことを書こうとしていたところはある。彼らの目は、確かにあった。

ところがここ最近、自分の居場所に満足しないということがめっぽう少なくなってきた。労働先や労働内容やそのほかの対人関係は比較的恵まれていて、安定している。自分ができなかったことが少しずつできるようになっているし、新しい世界が見えているような気がするし、自分は自分だけのものではないというように思うようになっている。間違っている、直さなくてはならないのは世界ではなく、自分であることの方が多いことに気が付いたのだ。

けれど、時折どうしようもなく疲れてしまうことがある。まるでかつていろいろなものに不満をぶつけ、それらを変えようと努力しようとしていた自分の思考の残渣が毒のように体内をめぐる瞬間があるからだろうか。これでよいのか、とも思わず、しかし、これでいいんだとも思えないような中で、深い溜息しか出てこないような瞬間がやってくる。

先日、労働先の後輩と話をした。後輩は、幹部に自分のプロジェクトをこっぴどくダメ出しされ怒られたとき、ものすごく怒ったし、ダメだったということに落ち込んだといっていた。ところがである。昔はそこから何としてでも立ち上がって頑張ると思えたそうだが、今は、その勢いのあまり眠れなかったり、自分の時間を削ろうとは一切思えなくなったということだった。そしてそのことに気が付いたときどうしようもなく無気力になり、それからもどうしようもなく疲れてしまって何もしたくなくなる瞬間があると言っていた。いやあ俺もそうだよ、と言いながら、こんな話ができる人が近くにいたことに感謝しあった。多くの人たちは、そんな悩みを抱えたことがないように振る舞う。いや、悩んでいるのかもしれないが、私たちよりよっぽどうまい気晴らしの方法を知っているのだろう。少なくとも、同僚とは愚痴を、信頼しあえる仲間や恋人と話し、酒を飲み美味いものを食べ、ゆっくり休めばそんな悩みは得てしてなくなってしまうということを実践しているのだろう。確かに私もこうして後輩と美味いものを食べながら話をしたら、そんな後輩の悩みも、それに少し動かされた私のことも、どうでもよくなってしまった。

後輩はあまりの疲労に直面したとき、思わず転職のエントリーシートを記入したと言っていた。けれど文字を書くほどに世話になった人たちの顔や、挨拶をどうするかということばかりが浮かんだという。転職活動は転職サイトに登録した瞬間とエントリーシートに入社前の経歴や資格の欄を書いた瞬間が一番楽しい。そこから先はその期待のツケを払うことばかりだろう。私も、この労働先を離れようとするほどに、離れることができなくなるのだろう。自分のことよりも先に今いる場所の人の顔が浮かんでしまう、これはもう企業戦士市場で価値がないことの証左だろう。ここから深い溜息が出始めるのかもしれない。自分を構成するものが、あまりに広がっている気がする。そしてそれでよいと思うようになった。自分が自分であると信じられる奴は俺を置いていってほしい、できればそっとそのまま私をそこに置いておいてほしい。願わくば歩道の外の雑草の繁みにでも置いておいてほしい。

どうしようもなく年を取りつつあるように思う。自分を認めてもらおうと努力し邁進できる人たちがまぶしい。そして素直にそのまぶしさを見れるようになってしまった。後味が悪いだろうか、確かにね。