Go To 肛門

タイトル以上のものはここには無い。私はどれだけ見繕ってもこういうもので笑うし、こういうものが好きだ。いくつになっても時事ネタを下ネタで卵とじみたいにするのは最高だと思っている。これを肴に一杯やりたいくらいだ。

たまごで一杯やるというと思い出すのは大阪キタの店でエッグベーカーに入った目玉焼きを出してくれる店だった。いや、目玉焼きというよりはオムレツというかなんというか、他に形容しがたい、説明しにくい料理だった。全員サントリーのオールドを飲んでそうな立ち飲みカウンターで、ハフハフといいながらエッグベーカーのたまごをつまみながらドライジンをちびちび舐めて、仕事で傷ついた心を癒し、そしてタバコをふかす――そんな妄想をしつつ、その店はほとんどが常連の人だったのでどこか肩身が狭い思いをしつつ、身の丈に合わないくらいでかい鞄を床に置くかカウンターの下のスペースに押し込んでしまうか結局決まらないままそわそわと周囲を見回していた。

こういう時、その店に通わずに道具を買って自宅で済ませてしまおうと思ってしまう。だからエッグベーカーを買おうとしたが、エッグベーカーはたまご以外に何か使うんだろうか?そもそも毎回焦げ付いて掃除が大変じゃないか?とか思ううちに、買いそびれてしまっていた。無くて困るものでは全くなかった。

しかし先日、人生唯一の楽しみとなった百貨店の「暮らしのフロア」を隅から隅まで巡回するということをしていたとき、たまたまそのエッグベーカーが企画展で売り出されているのを見てしまった。可愛らしいピカピカの絵付けがされていて、相変わらず家のどこでどんな時に使うのか全く分からないデザインをしていた。本当によくできた製品は、持ち主の生活様式を変えるのかもしれない。もしもエッグベーカーを買ったならば、毎日の晩酌のつまみはエッグベーカーのたまごになったかもしれない。しかし、それはあのさびれた港町か役所の地下室みたいな空気の店で食べるからサマになるのであって、暖かい食卓にはなじまないかもしれない。

 

毎日同じ電車に乗り、なるべく早く仕事を切り上げ、家に帰って家族との時間を過ごす。このルーティンの中にはこうした消費は一切入らない。そして今街で売り出されているものはすべてそうだ。意味の分からないプールサイド。えげつない軽井沢。砥石みたいなマグロ。これらはどこをどう頑張っても今の私の日常には入りえない。今、我々のいる世界は、こうした家族のような共同体を基盤にして成り立っていない。自由で平等な個人で成り立っている。だから砥石のようなマグロも売れるし、シェイクスピアの劇に出てくるような焼肉も売れる。結婚も生殖も、この原則を破る重大な例外でしかない。個人が判断して消費する、このことを基盤に据えて社会を発展させていった場合、我々はどこに行くのだろう。

結局エッグベーカーは買っていない。