広告が現れた

久々にこのページを開いたら自分のページに広告が現れていた。まるで見せしめじゃないか。こちらにだって更新できない事情とかいろいろあるんだよと思いながら、もうここに来て書くべきこともそんなにないんじゃないかとも同時に思ってしまう。頭をよぎるのは「引退」の二文字だった――。私は業界のものでもなければ突然現れた大型新人でもない。なのになぜか引退とかと一丁前に考えてほくそ笑んでいる。この労働お気持ち表明系ブロガー業界で長くやっていくのは大変だ。新参者が圧倒的に強い。彼らは当たり前の社会に対して圧倒的に鋭い眼差しを持っている。長く続けるほどにそんな眼差しを失い、気持ちなど表明できなくなってしまう。そもそもお気持ちとはどのような環境に身を置くかで規定されてしまうのでは?そうなるとあとはそのお気持ちをどのように表現するかという処理の問題でしかなく、アマチュアでも私のように力技一辺倒だった者は淘汰されていってしまう。世知辛い、何をやるにも的確に表現する方法の有無がものをいう。

そのために専門性を磨かないといけないのかもしれない。さて、どうだろう。私はここで持論を展開するために様々な例を出すことができるようになったし、そのようにすることをもはや会うことも話すことも無くなってしまった奇特な来訪者はそれは当然のこととして期待するかもしれない。しかし私はそれをしたくない。それをするほど私は誰でも代用可能な存在になってしまうからだ。根拠を示す、論拠に基づいて話すなんてことは技法でしかなく、技法によって規定されてしまう存在なんてものはお気持ち的な存在ではないと思う。ああ好き放題話させてくれ。新参者にはできない闘い方で食っていかないといけない。そして長くやってるものの特権は、ビッグな振る舞いができること、真剣なやつに肩透かしを食らわせること、あとどんなことがあるだろう。少なくともそうしたものに胡坐を書いて生きていくのは戦略のひとつであり、それにいちいちカッカしているようでは思うツボでしかないということはここ最近気が付いたことだろうか。ここで何が言いたかったかというと、ある領域に蓄積された様々な解決の手法に精通することこそが専門性を磨くということだと最近考えている。言い尽くされたことかもしれないけれど、至極当たり前のことが自分には新鮮だったりする。

しかしいつだって知的冒険をしていたいと思う。私はいまだに大勢が集まるところで奇声をあげたくなるし、誰もにやばいやつだと思われたい。けれどこの欲求は他人を必要とするから、年を取った男性にはかなりしんどいところがある。他人を要せず自分の欲求を満たすためには、ひたすら学んだことを忘れていくしかない。最終的にそこらへんに転がってる石とか、忘れられた自転車みたいなものになりたいと思っている。そうすればきっとどんなものも新鮮な気持ちで触れることができると思う。

それはそれはかなり前のことだが、友人と飲んだ後に歩いて帰れるような良いところに家があったことがあった。泥酔したあとに歩いて帰るというシティライフの極みみたいなものにも酔っていなかったかというと嘘になるが(別にシティライフのようなものを送っていたわけでは無い。むしろ私が飲む場所や友人との飲み方は全く都会的で洗練されておらず、別に自宅に和室があればそこでワイワイやってる方が良いと思えるようなものでもある。いや、このような謙遜がかえって良くないかもしれない)、やはり良かったのは、行きにはガードレールに無造作に停泊していた燦然と輝くバカカッコイイビアンキロードバイク(きっとめっちゃいい服を着た30代くらいのマジの都会マンが乗ってるんだと思う。彼女はきっとアポロみたいな帽子をかぶってる)が帰りにはボディフレームだけになっていたのを目の当たりにしたときだった。そんなことが本当にあったか今では怪しいけれど、まるで全てを受け入れ許したかのような姿になったビアンキロードバイクには尊さが溢れていた。この尊さは、推しが尊いとかそういう輝きを持ったものではなく、むしろ交尾の後に捕食されるカマキリのような、それは自然の作用に抗うことなく存在するものが持つ穏やかな暖かさによるものだったと思う。

生命の輝きはそうしたところから発せられるべきである。それは決して知的冒険から帰った時に身についているようなものではないのかもしれない。それは不自然なあり方を強いる場合もあるから、きっとその輝きは人工的でけばけばしいものかもしれない。いや、しかし天然のものだけが本当なんだろうか?本物であろうとするものは全て唾棄すべきものなんだろうか?私が学生時代にぶちのめされた某物語的なことを何度も繰り返してはほくそ笑んでいる。なんてエコなんだろう。ここに向かって適当に独り言を垂れ流しておけば誰にも嫌な顔をされず好きなことばかりを話せる。お前が今どんな顔をしているかなんて俺は知らないから、頼むからそんな顔をしないでほしい。いやあ愉快愉快、自由にやった上でクソみたいな広告(本当はもう少し同級生が実は…とかそういう系のマンガの広告だったらよかったんだが)ともおさらばできるなら、別に車を買ってシティポップを流しながら首都高を走る必要なんてどこにもない。