ツイッターに書く内容でもないのでここに書く。どうしようもなく疲れた時にはある時点の出来事がフラッシュバックすることがある。私の場合は、自分が南米の赤道地帯と思われる場所、で燦々と降り注ぐ厳しい陽光の中、麦わら帽子をかぶって鍬でその土地を耕している情景が浮かんだことが何度かある。そんな経験は一度も無い。

とんでもなく暑い真夏の日に、偉い人への御説明に使う資料を部屋に届けるよう仰せつかったことがあった。部屋に着くと、この感染症の騒動で出ている人が少ないにも関わらず、狭い場所に15人くらいの細くて姿勢の悪い男たちが、全員、同じ黒のスーツのジャケットまで羽織り、大量の書類が綴じられたキングファイルを持って、ある者は応接用の椅子に腰かけ、しかし大半は立ってそわそわ動きながら説明のために偉い人の部屋の扉が開くのを待っていた。レンブラントの絵画あるいはウェルベックの「地図と領土」にて触れられていた絵画群が持っているような構成力に圧倒された。そこにいる人たちは、考え、処理するためだけに存在するかのようで、人間の脳を直列つなぎして作る回路を形作る部品のようだった。人が作ることができるものは決して具体的なものにとどまらず、具体的な形は無いけれども自らをも取り込むような仮想の機械をも作り出すことができることを見せつけられた。何十人、何万人という人の力を結集して作り上げたものに一人で触れるとき、そのあまりの大きさに、平伏し自らをも差し出すことで自らを保つか、轟音を立てて動く歯車に巻き込まれて命を落とすしかないのだろう。