君の担当プロジェクトは燃えているかい?

野暮だ。何とでも言ってもらってよい。ただでさえ頭は朦朧としているのに、酒を流し込んで今この入力画面に向かっている。一人で外で飲むのは金曜日だけにしている。いつも行くファミレスでは顔をすっかり覚えられ、「以上でご注文はお揃いでしょうか」という確認事項も私だけ省略される。なぜなら私はフルコースのように追加注文をしていくからで、そのことが店で共有されているからだ。足取りもおぼつかない状態で商店街を歩けばマックの前に無造作にとめられている自転車のサドルの上に座ってスマートフォンをいじる私服の女子高生や、コンビニの前で帰るだの帰りたくないだの押し問答を繰り返すだらしないスーツを着た男とお姉さんがいて、どれもがまるで嘘のように思えて通り過ぎる。牛乳を買うために寄ったスーパーでは家にあるにも関わらずワインを買ってしまう。そうでもしないと自分を保てないから――このような恥ずかしい自分の弱さを嬉々としてアニメの曲をもじった題名の下で話そうとしてしまう自分があさましい。しかしどうしてもこのことは話したい、話さないと収まらないのだ。プロジェクトが炎上するとはどういうことか、そこにはどんな人がいるのか。私がこれから話すことは客観的な事実ではないかもしれないが、私がどう感じたかだけは事実である。リアルなものは、体験したということそれのみだから――。

炎上。いくらでも事例はあるが、私のケースについて説明する。再三触れているように私は請負業に従事しているが、請負業とは人にやれと言われたことをきちんとやれるかどうかがすべてだ。むしろそれ以上はない。それをどんな人がやろうか、やりながらどんなことを考えるか、どれだけ成長したか、そんなことはどうでもよい。聞いてない。請負業とは、人にやれといわれたことをきちんとやれるか、それに尽きる。できることがあるのだから、もちろんやれないことだって世の中にはある。けれどどうだろう、どれだけできることとできないことを人は判別できるのだろうか。分別のついた大人だったら自分の経験を振り返り、自分の強みと弱みを分析し、ふざけんな、ぶっ殺すぞ。そんな人間はいない、少なくとも俺の周りにはいない、できることだけやっていたらできることしかできないままだ。幸いにして人は、誰だって新しい景色を見ようと最初の一歩を踏み出すことを夢見る。もし月に行くことができたら、もし仕事を変えたら、もしこの人に好きだと伝えたら――世界はifに溢れていて、誰だってそこにある可能性を信じてみたくなる。そしてそれができることは人間の最後の尊厳かもしれない。しかし間違いとは、そこで最初の一歩を踏み出してしまうことともいえるだろう。

そして踏み出してしまうと後ろには引き下がれない。たとえそこで誰も想定しなかったようなことが起こってもだ。ルビコンを渡ったら戻れない。いや、引き下がることはできるだろうけれど、それには先立つものが必要になる。マネーだ。マネーがあればなんだってできるが、世にいう取引社会においては違うかもしれない。できると言ったことをできないということは、とんでもないほどの信頼と信用を失うことになる。考えてもみてほしい、あなたに「任せてください」といってきたヤツが突然「できなかった、そもそもコンディションが悪かった、今日は本気が出ないんだ、金ならやる」と言い始めたとき、あなたは許すことができますか?少なくとも私は許せない。そして私と私の関わる人達は不運にもそれで許されない側の人間に回ってしまったのだ。

戦闘で一番難しいのは退却戦で、その退却の最後尾を務める殿はとにかく本軍を逃すという大命を負っている。使えない兵士はその場で捨てられ、救援や補給が望めなくても、それでも目的のため戦わなくてはならないのであれば、それは戦闘という非日常的な状態の中でも、極限的に非日常できあろう。目的のためならなんだって許され、達成したならば望んでいたものすべてを手にすることもできる革命的な状態ともいえる。この非日常的な状態をコントロールすることにこそ殿の一番の難しさがあるのかもしれない。なぜなら、非日常に浮足立っているならば、どんな力だって出せるかもしれないし、どんな些細なことでも躓くことがあるからだ。それが数日や数時間のことだったら確かに士気も上がったり勇気も湧いてくるだろうし、やり切れば報われるということが信じられるならむしろチャンスかもしれない。しかし今回の場合、残念ながら事業の性質から、この非日常的な状態は何年にも及びそうだ。何年間も、あなたが頑張れば頑張るほどそれは事業の失敗を脹らませるけれど、それでもあなたたちだけは頑張り続けなければならない、しかし支援はできる範囲でのみします、と言われ続けたらどうなるだろうか。簡単、人は発狂する。先がないという状態、希望を持てない状態にいる人は本当に容易に発狂する。そこにいる人はどこか遠い目をするようになる。俺の後ろに何か憑いているのだろうか、と思うほどに話をしていても目が合わなくなる。指揮系統が狂う。誰が何の話をして、誰が決定するのかが一切不明瞭になる。長と名の付く人が真っ先に帰ろうとし、打ち合わせや会議を平然とさぼることが当然のようになる。そしてやれと言ったことが、数カ月やられないままだったりもする。今日だって自分の父親くらいの年齢の担当者が会話の途中で突然わかんねえよと何度も何度もつぶやきながら目を押さえて震えていた。このような話はいくらでもしたいが、それ以上は事業に関わる話なので避けたい。

断っておくとこれは支援体制が悪いというわけではない。むしろ考えうる限り最善の支援体制は整っている。しかし、いやなことが起こっているところには誰だって目を向けたくない。もっと楽しくて明るくなるようなことばかりを考えていたい。いやなことに目を向けたというだけで100点をあげたいくらいだ、ましてやそれを解決することができたのなら、なんだってあげてもいいくらいだ――。何が言いたいかというと、他人の炎上は他人事でしかない。一緒にその重荷を負担してあげようという人ほど、重くなった時に荷物をすぐに離す。そしてプロジェクトの責任者からしてみれば、他人事としてしか考えていない人は一瞬で見抜けるのだろう。味方のはずの人を誰一人信じられない状態ほど苦しいものはない。私はそうした懐疑のまなざしを向けられた。私はそうした人を前にしてただその狂気の中に腕を突っ込んでかき回すことしかできず、その重荷を持たせてすらもらえなかった。

私はこのプロジェクトの責任者でもなければ、その当の実行部隊でもなくて、プロジェクトの完遂のために支援する部署の一つのうちの一人でしかない。何をして支援しているかというと、そうして発狂した人たちを見て、少しでも希望を持ち始めたら現実を見せることをしている。最悪と信じたくないことを見せ続け、やるべきことをやらせることでもらったお金で、先ほど述べたようにスーパーでワインを無造作に買っても平穏な生活を送ることができる。現実を見せることができたり、やるべきことをやらせるなんてのは小手先の技術でしかなくて、やっていくうちにどうとでもなり誰でもできるようになることのように思う。だからもらっているお金の9割くらいは、人の限界と向き合うことでもらっているような気がする。

限界を迎えた人には恐ろしい引力がある。こうして今文章を書かないといけないのも、全く飲みたくないのに酒を飲み、帰り道のすべてに意味を見出そうとしてしまったのも、こうした限界の人々に長時間触れたからだろう。これは仕事だと割り切って行っていても、ふとした拍子に自分のやっていることの暴力性や、遠い目の先にあるものを思い浮かべてしまい、どっと疲れる。溜息しか出ない。にもかかわらず、成果物が一切出なければ、状態が改善する見込みもない。自分だっていつ発狂するかわからないという恐れが常に付きまとう。炎上プロジェクトには悪い霊が憑くとよく言う。だから験を担ぎ、ひたすら祈る。皆で祈る。現実は冷静に分析し働きかけないと変わらないと言うが、分析する能力やそれを実行するにも自分が自分であることが必要だ。そして自分であることは、祈りでしか維持することができない。

道中、「仕事するうえで最強なのは、ばっくれること、とぼけること、そして何もしないことの3つだ」と上司と話していた。まじでそうっすよねとゲラゲラ笑いながら相槌を打っていたが、これは発狂した先ほどの人を思っての話だった。確かにその人は最強だった。もう誰にも止められない。誰もが狂うし、誰もを狂わせる。そしてそんな人に接することでまた狂う。こんな文章を臆面もなくさらすことができる。なぜなら何もかもが不確かになるからだ。このままいけば全日本くらい一瞬で恐怖と狂気に叩き落とせるのではないか?プロジェクトは、やって終わるならまだよいんだ。やるということができない状態が恐ろしいのだ。それでもプロジェクトは進まない。君の担当プロジェクトは燃えているかい?

残業50時間詩 1

その昔学校の先輩が世の中には社会をメンテナンスする仕事と社会を前に進める仕事の2つしかなくて、君はどちらに行くのかわかっているのかと言われたことがある。それは苦戦して内定をやっともぎ取り就職先を決めた私を祝う場でのことだった。こうしたことを言いきることのできる先輩だったからきっと今も大活躍されているのだし、社会を前に進められるのだと思う。先輩の名前を各所で見るとき、ふと私はそんな先輩の後輩であるということを誰かに言いたくなると同時に、そんなことでしか自分を語ることがなくなりつつあるという悲しさに襲われた。変わらないのはそんなことを言われたり、そんなことに気づいたときに飲むビールはおいしいんだか渋いんだかわからないというあいまいの極みみたいなところにあるということで、本当はおいしくって爽快の極みのようなビールを飲みたかったなあと酔いが醒めた頃に思うものである。

労働者としての価値ということを就職先を選ぶときに考えればよかったと思う。伝統的な家に生まれ伝統的な価値観の下で育ち伝統的な成功像を自然と追い求めたあまり、どうにもキャリアという観点から考えると派手で目立つようなものは一点もないレジュメが出来上がってしまった。2000年以上も輝き続ける履歴書に憧れたりもするが、自分の名前が歴史に残り、それが燦然と人類史の中で輝いている絵を本当に思い浮かべていたが、根拠なくそうしたことを信じることができたかつてが懐かしくもあり、恐ろしくもある。だから社会を前に進めるということを考えることはなかった。社会は自然と進んでいくものだと思っていた。そして社会には個人の強い思いや、理想や、夢に共感した人々がイキイキして活躍していて、その中心には優秀で有能で人徳に溢れた人がいるはずだった。しかしてそれはどうだっただろう。

私はどうやっても社会を守りパッチをあてていくことしかできないのだろう。いや守ることすらもできない。穴が空いたところを必死で穴が空いてますと叫び続けることしかできない。むしろ天井から水が漏れてきたら漏れてきたところにバケツをおいてずっと見ながら、いやあ漏れてますねえと言い続けることしかできない。なぜなら技術がないから。穴を埋める技術がなければ、漏水を止める技術がなければ、物を変えることができない。ところで私はその間ひたすら適当なことを言いながら相手の怒りが収まるのを待つしかないのだが、そんな人は決して私だけではないとも思う。私はふと映画タイタニックで沈没せんとする船の中で演奏を続けた楽隊のことを思い浮かべた。彼らにもしそこにいた乗客全員を救出することのできる技術があったら、助けただろうか、それとも楽器を弾き続けただろうか。自分にできることをやり続けるというのは確かにそうだが、それではいつまでもそのままだというのを何となく思ってしまう。そしてその感覚は内なる獣のように突然湧き上がっては今立っている場所を炎で燃やし尽くそうとしようとしてくる。

私だけではないだろうが、私のような技術のない人間は皆何をしているのだろう。決して世界中の人が換金価値の高い技術を持った天才イケイケ技術者だとは思わない。私よりきっとプログラミングが下手なプログラマーもいるだろうし、私より謝罪がうまいプログラマーだっているはずだ。技術を持っている人はプログラマーには限定されない。調理人だったり職人さんだったりもそうだ。確かに彼らは時間をかければその技術は磨かれるだろう。しかし私は時間をかけても謝罪までのもって生き方が上達するくらいだが、それだって作法が違うところに行けば全く通用しない。私は40年近くかけて完璧な謝罪をする偉い役員たちを見てきた。しかしもし彼らがシリコンバレーのクソイケイケ企業をファックしてしまったとき、同じマナーで謝罪するのだろうか。私はできるならそこで謝罪のプロトコルの通訳をして金をもらいたい。スターウォーズの時代でもプロトコルの通訳をする専用のロボットがいたのだから、きっとこの仕事はなくならないだろう。しかしてそんな仕事に今は就けず、貴重な時間を尊い労働時間に変えるしか金をもらうすべがない。そのほかないのだ。そしてそこには残念ながら志を金にかえるようなものはない。けれどきっと。私はそれを強く持ち続ける力がなかったのだろう。

会社のえらい人と飲みました

退職エントリーを書く人もいれば、退職しなかったエントリーを書く人もいる。私はそのどちらでもない。退職しようとしたこともあるけれど、退職しない理由を大きな声で話すこともできない。中途半端な覚悟しかないから、自分の居場所に責任を持てず無責任なまま漂っている。

しかしそんな私も会社ではそれなりに会社や会社での権威には従順にやっていて、というか会社での労働内容と折り合いをつけたという表現が正しく、中途半端だから中途半端な立場に居るというのが実情だ。何事もやりすぎはよくない、別に突出した才能なんてなくてもよいんだということを思うようになった。人外の知識を必要とされるから無限の時間を労働に費やす必要も無ければ、いかに手を抜くかだけで勝負が決まるというわけでもなく、適度にやっているのが一番というようなところに私も適応したのだ。

技術屋はその技術でそれなりに食っていくことができるが、保証された技術のない事務屋は上司の肛門を舐めて得意先の局部を舐めるくらいしかできない。もちろん私にはそれなりの経験や知識や事務管理の能力が身に着いたと思うが、それでもそんなものは保証された技術ではない。だから時折、自分のレジュメはどうなるのだろうということを考えることもある。

事務屋としてこれからやっていくとなると、身につけなくてはいけないのは、明確な技術というようなモノではなく、人にいかに話させるか、人にいかにやる気を出してもらうか、人にいかにやってもらうかという力であるように思う。そしてこれを突き詰めると、別に事務屋には個性なんてなくてよくて、ただ何かをしようとしている人の鏡になれればよいのだろう。その人が考えていることや、考えに至らないものを的確に映す鏡としての能力があるほどよい事務屋なのかもしれない。

こうなると中途半端であることも、軸がないことも、自分では何ひとつできないことも、別に良いような気がする。かえってそちらの方がしなやかでよいのかもしれない。そしてこんなことを考える機会を与えてくれたということだけでも、まだ会社、むしろ自分の周りに居る人に受けた恩を返さなくてはと思う。それはその人に直接返さずとも、私と同じような立場の人に自分がされてよかったことをしてあげるということもある。どんな小さな手違いや失敗であってもキチンとどうすべきかを一緒に考えてくれ、無礼や癪に障るようなことを言っても正面から怒ってくれて、難しい問題でとても私の手に余るようなことでも私に相談してくれた偉い人達と飲んだ時に、そんなことを思った。

友人の楽器を一緒に選んだ

先日、友人が今住んでいる街の近所に越してきたというので久々に飲んだ。飲んだと言ってもガバガバとビールを流し込んでいるのは私の方で、むしろ相手は私に付き合って飲んでくれているんじゃないかと思うほど節度を守って飲酒していた。学生時代から非常に仲良くしてくれていて、今の私があるのは彼のおかげと言っても過言ではないと思うほどである。これは本当に。

新天地で彼は新しい仲間とともに楽器をはじめたいという。彼は昔バンドをやっていて、学生時代同じサークルの音楽仲間であったことを思い出した。彼との交友はサークルを離れてからの方が長い。聞くに今までやっていたことではなく、新たにベースをはじめたいという。私は学生時代の借りを少しでも返せるならと思って、力になれるよう尽力した。そして週末に、一緒に楽器屋にいくことになった。

楽器を誰かと一緒に選ぶというのはいつぶりのことだろう。思えば最初の楽器を買ってもらったのは父と一緒の時で、弦楽器のことは全くわからなかった父は店員の進められるがままに、予算と相談して決めていた。その次は中学の友人と。彼らは今は何をやっているのだろう。高校入学のお祝いで好きなものを買って来いと両親に言われてもらった札を握りしめて、そいつらがゲーセン代や酒をたかろうとしてくるのを振り切って、選んでもらった。渋谷のベース専門店で選んでもらったフェンダージャズベースで、それは今でも現役で活躍している。フレットは抜いて、ピックアップも変えてと大改造を加えヘルタースケルターのようになってしまってはいるが。そして最後に楽器屋で買ったのは、大学の入学祝いでだ。またしても父に来てもらって、そのときは私が欲しいと思っていたものを指定して買ってもらった。今、父の立場だったらどう思うのだろう。最初は何もわからず金額で楽器を選んでいたのに、数年の間に子供が音の良し悪しを語るようになったとしたらやはり嬉しいものなんだろうか。PUNPEEの夜を使い果たしての歌詞に出てきたオヤジのことを思い出す。

持論として、ある人にはその人が持つとサマになる楽器というのがあるように思う。そうでない楽器を買ったならば、それを相棒に選び続ける限り、その人はその楽器の求める像に近づいていくように思う。むしろ良い楽器とはそのくらいの力を持ったものだろう。同じ楽器で同じセッティングで弾いても、弾く人によって音は全く異なる。確かにこの人が弾くと楽器のポテンシャルは出せてるんだろうけど、どうしてかその人がその楽器を持つと収まりが良い、と思えてしまうようなものもある。私は父に入学祝いで買ってもらったその楽器に似合う人物になっているかというとどうだろう。こればかりは他の人に判断してもらいたいが、何より人の最初の楽器選びに付き合うというのはそのくらい重要なことに携わるということである。友人の結婚式の友人代表スピーチをやるよりも重い気持ちで、それでも友人の恋人を見に行くようなワクワク感をもって、その日になった。

もちろん楽器選びは一筋縄ではいかない。何種類もの楽器を何度も試して、それぞれの個性を把握して、それが演奏者のもつイメージとマッチするか考える。直感的なものほど言葉にすると逃れてしまうので、気に入った理由を問いただすにも問うほどにその本当の理由から離れていってしまうから、質問するにも、私が思った個性を伝えるのにも、細心の注意が必要だった。1時間ほど一緒に悩んだ挙句、回答を得ることができた。この選択は非常に良かったと思う。演奏者も、私も、非常に満足したと思っている。きっと他の人も友人が弾くのを見たら、納得すると思う。

私も最初に友人に選んでもらったとき、それでよかったのかどうしようもなく不安だった。楽器を選ぶとき、知識のある人はその知識から選びたくなってしまう。この仕様がこうだから、このモデルはこういう音を目指して作られているから、等々。楽器や製作者にまつわるストーリーはいくらでもあれど、それがその音を説明してくれるわけでは必ずしもない。今思えば当時の友人たちが賢明だったのは、そんなストーリーやらを一切排して、見た目、予算、私が持ってみてイケてるかだけで判断してくれたことだっただろう、頭ごなしの説明を受けた記憶はない。私も、今はどこにいるかわからない彼らにしてもらったことを、借りを返しても返しきれない友人に対してやることができたのだったらとてもよかったと思う。

 

話は変わってアニメ「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を2回ほど視聴する機会に恵まれた。このアニメについて深く立ち入った感想文はまた改めるとして、大変感動したのは、神楽ひかりについてのエピソードだった。以後、ネタバレ等々は一切配慮しないので悪しからず。

端的に言うと、舞台に立って輝くことを夢見て努力してきた彼女は、自分よりも優れた(とされる)人を目の当たりにしたとき、もう舞台に立つことにいかなる夢や感情も持ち得なくなってしまったのであった。

この感覚がどの程度一般的な共感を得られるのかわからないが、少なくとも貴重な青春の時間を楽器というものに費やしてしまった私は、どうして貴重な時間を音楽に費やすのかわからなくなる瞬間に多く見舞われた。なんで練習し、なんでこんなアンサンブルばかり繰り返すのか、どうしてこの音を弾かなければならないのか。確かに練習すれば技術を身につけられ、何者かになれるかもしれないが、逆に練習すればするほど、そうした目に見える成果を全て差し引いても残る、自分は演奏者としてどうありたいのか、何になりたいのかという問いは深く突き刺さるようになっていた。私にとって楽器を練習することはいつの間にか楽しいくて自由になれる時間から、いろいろなところで逃げ続けてきた、自分の存在を定義することと同義となった。それは自分との格闘で、微塵も面白くなかった。そしてそんなことに悩んでいるとき、卓越した音楽家に出会うと――ここでの卓越とは演奏技術であったり、演奏、つまり「輝いている」ということ――一瞬にしてこれまでのキャリア、それだけでなく自分に価値などないように思えてしまう。キラめきが奪われてしまうのだ。そしてそれは何度もあった。こと、楽器を選んでくれた友人が今や第一線のミュージシャンとして活躍しているというニュースを全くの人づてに聞くようなことがあれば。

学生時代を終えて出会った音楽家の多くは、音楽家として悩んでいるようなことも無ければ、迷うこともなかった。彼らの多くは楽器を演奏すること自体が楽しくて仕方がないという人たちだった。しかしどうにも楽器を演奏すること自体に私は楽しさを見出せなくなっていて、最高だと思えたいつかのライブ、最高に充実していたいつかのバンド練習、最高だったいつかのバンド仲間のようなことばかりを思い浮かべながら彼らと演奏していた。だから純粋に楽しそうに楽器に触れ、疑いなく進む彼らを見るのは苦しかった。屍のように演奏を続けていたと思う。ファーストコールになれなかったのもそうしたことがあるからだろう。

 

会計を済ませた後、私はその友人と新しい楽器をもってスタジオに入って、大まかな弾き方を教えることにした。教えるということは、自分が自然にやっていたことを言語化することであり、個人的な経験を他人が追体験できるようにすることだと思う。ベースの持ち方、右手左手の置き方から教えるとき、私はあまりに多くのことを無意識のうちにやっていたことがよくわかった。その短い時間の中でどれだけのことが彼に伝えられたかわからないし、体系だっていない経験的技術を伝えるしか私にはできないから、決して良いインストラクターではなかったと思う。よく付き合ってくれた。

ベースは他の人と合わせてこそその楽しさが発揮されると思う。だからベースの操作に関する技術的な話だけではなく、とりわけアンサンブルの楽しさを伝えたいと思った。だから私がドラムをたたき、ベースは単純な2音をそのドラムに合わせて弾くという反復練習をした。これは想定したよりもよい練習だった。私も非常に楽しかったし、友人も次第にノってきてくれて、その時間を楽しんでくれたように思う。練習後に水を飲みながら、まだ自分には、少しでもそうした楽しさを伝えることができるのだと思ったとき、ふつふつと暖かい感情が湧いてきた。はじめて自動車学校で車のアクセルを踏んだとき、はじめての自炊で煮物を作ったときのことを思い出した。もちろん、友人に選んでもらったベースで彼らと一緒に演奏をして、ベースの楽しさを知ったときのことも。

 

劇中で神楽ひかりは、失意の中で再び舞台に上がる理由を見つけることができた。そして彼女はその理由を実現することができた。その過程は作品本編を見ていただくかその他の知者を頼ってほしい。おそらく立ち入った感想文は書けない気がする。ただ、楽器を弾く理由を奪われ、それでも何となく弾かなければならない状況にあり、かつ弾かないといけないと思ってしまう状態の苦しみは、その苦しみを知らない人にどう説明すればいいのかわからない。自分でもわからなかった。そしてそこから再生することの喜びも、再生に向けた理由を見つけたときの喜びも、この作品では本当によく描かれていて、共感と感動なしには観られなかった。この週末の短い時間は、私にこの作品のこと、私が楽器に対して抱いていた苦しみから再生する方法を間接的に授けてくれるには十分だった。

週末の話とも、感想文ともつかない中途半端なものになった。自分を作品の登場人物に重ねようとしているようにしか思えないと言われたら反論ができない。しかし今一度楽器を持ち、自分に向き合おうと思えた瞬間があったことは確かである。音楽関連で心が昂ったのはいつぶりだっただろうと思うほどだった――と書ききったことできちんと練習します宣言もできたわけだし、よい週末でした。

どうしようもない疲れ

久々に更新する。この時間にこうして家にいて、自分の時間が持てるということに感謝したい。

かつてどのようなことを思って記事を更新していたのだろう。記事を書くとき、確かに誰かを想定していた。それは自分と同じような境遇の人だったり、育ちや価値観が近い人だったり、要するに今いる場所に満足がいっていないような人たちだ。彼らを勝手に同志と思い込んで、その人たちに見てもらえるようなことを書こうとしていたところはある。彼らの目は、確かにあった。

ところがここ最近、自分の居場所に満足しないということがめっぽう少なくなってきた。労働先や労働内容やそのほかの対人関係は比較的恵まれていて、安定している。自分ができなかったことが少しずつできるようになっているし、新しい世界が見えているような気がするし、自分は自分だけのものではないというように思うようになっている。間違っている、直さなくてはならないのは世界ではなく、自分であることの方が多いことに気が付いたのだ。

けれど、時折どうしようもなく疲れてしまうことがある。まるでかつていろいろなものに不満をぶつけ、それらを変えようと努力しようとしていた自分の思考の残渣が毒のように体内をめぐる瞬間があるからだろうか。これでよいのか、とも思わず、しかし、これでいいんだとも思えないような中で、深い溜息しか出てこないような瞬間がやってくる。

先日、労働先の後輩と話をした。後輩は、幹部に自分のプロジェクトをこっぴどくダメ出しされ怒られたとき、ものすごく怒ったし、ダメだったということに落ち込んだといっていた。ところがである。昔はそこから何としてでも立ち上がって頑張ると思えたそうだが、今は、その勢いのあまり眠れなかったり、自分の時間を削ろうとは一切思えなくなったということだった。そしてそのことに気が付いたときどうしようもなく無気力になり、それからもどうしようもなく疲れてしまって何もしたくなくなる瞬間があると言っていた。いやあ俺もそうだよ、と言いながら、こんな話ができる人が近くにいたことに感謝しあった。多くの人たちは、そんな悩みを抱えたことがないように振る舞う。いや、悩んでいるのかもしれないが、私たちよりよっぽどうまい気晴らしの方法を知っているのだろう。少なくとも、同僚とは愚痴を、信頼しあえる仲間や恋人と話し、酒を飲み美味いものを食べ、ゆっくり休めばそんな悩みは得てしてなくなってしまうということを実践しているのだろう。確かに私もこうして後輩と美味いものを食べながら話をしたら、そんな後輩の悩みも、それに少し動かされた私のことも、どうでもよくなってしまった。

後輩はあまりの疲労に直面したとき、思わず転職のエントリーシートを記入したと言っていた。けれど文字を書くほどに世話になった人たちの顔や、挨拶をどうするかということばかりが浮かんだという。転職活動は転職サイトに登録した瞬間とエントリーシートに入社前の経歴や資格の欄を書いた瞬間が一番楽しい。そこから先はその期待のツケを払うことばかりだろう。私も、この労働先を離れようとするほどに、離れることができなくなるのだろう。自分のことよりも先に今いる場所の人の顔が浮かんでしまう、これはもう企業戦士市場で価値がないことの証左だろう。ここから深い溜息が出始めるのかもしれない。自分を構成するものが、あまりに広がっている気がする。そしてそれでよいと思うようになった。自分が自分であると信じられる奴は俺を置いていってほしい、できればそっとそのまま私をそこに置いておいてほしい。願わくば歩道の外の雑草の繁みにでも置いておいてほしい。

どうしようもなく年を取りつつあるように思う。自分を認めてもらおうと努力し邁進できる人たちがまぶしい。そして素直にそのまぶしさを見れるようになってしまった。後味が悪いだろうか、確かにね。

現場にいたときに連れていってもらったとんかつ屋に久々に顔を出した話

1か月半ぶりに髪を切った。だいぶ伸びて整わなくなっていたので一刻も早く切りたかったので、非常に満足している。この髪型は想像よりも高くついている。この短さが実は厄介で、この長さ、この刈り込み具合をきちんと保とうとすると少なくとも1か月には1回切りに行きたいと思いっている。毛先だけを切ってふわふわさせてる適当なやつらにはこの気持ちはわからないだろう。一生そうやって遊ばせていればよい。

この床屋に出会ったのは現場に勤務していた時で、そのときは仕事帰りに5分ほど歩くだけだった。長く看板を構えているのだろうけれど少しも古さを感じさせない、焦げ茶色を基調とした床屋は細かいところまで手が行き届いた場所だけに許される清潔感に溢れていて、いつ前を通っても人が入っている。はじめてそこで髭を剃ってもらったとき、ここまで自分の顎はすべすべになるのかと驚いたものだった。

今はオフィス街に勤務している。と言っても何をやっているのかわからない会社が入る高層ビルとガラス貼りっぽい駅舎のあのどこででも見るようなオフィス街ではなく、そこから少し離れた、伝統系の企業が立ち並ぶオフィス街に勤務している。現場から職場までは電車で1時間以上はかかる。家からも1時間近くかかるけれど、あの床屋は本当に腕がいい上に、また時折は昔の現場の頃の苦難を思い出すことも人生には必要である、という理由をつけて勤務先や家の周りの新しい床屋を探さずにそこに通ってしまう。通うからには現場の頃の思い出と対話しようと最初の頃は意気込んでいたものの、そこの床屋のマスターと何となく音楽の話や筋トレの話をするために仕方がなく行っているんだ、社会性を保つための1時間だと割り切るようになっている。

深酒をした翌日は、なぜか感性が極めて研ぎ澄まされている。聴き取れなかったパーカッションのパートや、歩道橋から見る街の風景に刺すような鮮やかさを見つけることができる。そして例によって昨夜は深酒をしてしまい、床屋で横になっている間も回復しなかったので、なぜか現場にいた頃のことがそのままに思い出された。そして現場にいたときに連れて行ってもらったとんかつ屋のキャベツがとてつもなく食べたくなった。

なぜとんかつではなくキャベツなのか。現場の昼食は出入りの仕出し屋の弁当だが、食は士気の要とはよく言ったもので、冷えた冷凍野菜のおひたしばかり食べていると心が本当にひもじくなる。このひもじさについては改めたい。ひもじさに耐えかねると人は寛大になるのか、連日のおひたしに耐えかねた上司は時折、とんかつを買って差し入れてくれた。タッパーに入った大量のとんかつに特製ソースをかけて弁当の白米と一緒に口に運ぶと、まだ熱いとんかつから染み出す脂と冷えた米が最高に贅沢な気分にさせてくれる。そして何よりこの差し入れの付け合わせのキャベツは、みずみずしさに溢れていて、この脂の溶けだしたソースとの相性が格別なのである。そして不思議なことに、そうした楽しい思い出はメインよりもサイドディッシュと結びついていたのだった。

そこのとんかつ屋で一度現場の懇親会をしたことがある。説明が遅れたが、このとんかつ屋は街のとんかつ屋というような気さくな感じではなく、どちらかというと割烹然としている。いつも食べていた差し入れはこんなところで作られていたのかと驚いたが、それ以上に懇親会のコースは恐ろしかった。こんな美味しいものをこんな短時間で、味わうこともそこそこに食べて飲んでいては罰が当たるだろうと思うほどでもあった。

現場の最高責任者(統責と呼ぼう)、は、思えば破格な人だった。現場で何か市場価値のあるスキルが身に着いたかと言われれば皆無だと断言できるが、この人と同じ職場にいて、その仕事ぶりを間近で見るということは、他のところではあまり経験できないことではないかとは思う。この業界の人間は粗野で、無骨で、品がないと言われることが多いし、最近の私のふるまいの変化を思ってもそのことを否定するつもりはない。しかしこの人は、少なくとも人前では、そうした低俗さ、下品さと無縁だったと思う。それは何か理想に燃えていたとか、極めて高い徳と艱難辛苦で磨かれた人格を持っていたからとかではない。人を自分の意図通りに動かすことに長けていて、しかもそのやり方が徹底していたからだと今では思う。

今日もその店に入るために、漢字一文字がかかれた暖簾から玄関まで概ね10mは歩いたし、値段を見たことがない日本酒の空き瓶が所せましと並べられた道中の石畳を見た。店の水槽には悠々と泳ぐ伊勢海老がいて、とんかつを揚げる音と豚ヘレブロックを捌く音だけが店内に充ちていた。私のほかには何人か女性の一人客がいて、忙しそうにスマホをいじっていた。

そして店内を見回すとやはりワインセラーがあって、統責が好きだったワインが所せましと並べられていた。統責はこの店に20年近く通っているらしく、曰くこの店は自分がここまで引き上げた、と。現場懇親会のとき、私は組織の最年少者として席中を回って酒を注いでいた。もちろんその度に礼儀作法やらなんやらをありがたく叩き込まれるのだが、その中でも副責任者は思い入れが強いので、私は意図せずとも避けてしまうふるまいをしていたようだ。もちろん副責任者がそれを見逃すわけもなく、私を捕まえ、さらには私と同年代の小僧を捕まえ、挙句の果てに主任を呼びつけ、教育は連鎖的に広がった。曰く、朝、副責任者よりも早く来てないから私は酒の注ぎ方一つをとっても間違う。それは主任も髭を生やして職場に来ているからだ、と。ちょうどそのとき横ではあわびのバターソテーの中にエリンギが混じっているかもしれないから、そのエリンギをみんなで見つけ出さないといけないよなあというやり取りがされていて、明らかにそこだけ空気が重くなっていたように思う。だからか、統責はそんな教育の現場まで足を運び、ワイングラスを自ら配っていった。そしてワインを注ぐと、ひたすらこの店の料理とワインがどうして合うのかというような話をして、他愛もないエリンギの話を松茸の話にすり替えて、自分の松茸の話をして、それは違うでしょうとこれも20年近く統責と一緒に現場を渡り歩いた事務担当者の言葉に一同が笑うと、副責任者を連れて別の席に移ってしまった。食事が終わると、統責は最後に一人ずつに感謝を述べた。そして暖簾をくぐってお開きになるや、何事もなかったように皆に背を向けて一人で帰っていった。

3年ほど経った記憶のため、美化されているのは仕方がない。それに仕事の話だから多少ぼかして書いている。しかしその3年の間に取り巻く環境も随分変わってしまった。人事の変更や制度の変更によって、急激に統責に風当たりが強くなっているそう。もはやこうした懇親会も開かれなくなったそうだ。そのことは先日、職場に研修で来ていた統責を見かけたとき、かつての落ち着いた印象に変化があったことに気づかざるを得なかった。統責のやり方についていけない人のあったことは当時から言われていたが、それでも無理をしてでもついていけば何かを見せてくれる、少なくとも美味い食事と酒を自腹でごちそうしてくれて、感謝される。それは不確実なことばかりが起こり、誰もが自律した個人では必ずしもない場所において、少なくとも確かなことの一つだった。そして統責はこの因果律が絶対であること、その結果として統責が与える報酬にはなんであれ絶対の価値があるということを人に信じさせることにかけては、これまで私が出会った人の中でも卓越していたと思う。

今のオフィスビルでの生活は、とても落ち着いている。めちゃくちゃなことを言う人もいなくなり、かつての荒んだ心はどこに行ったのだろうかと思うこともある。しかし今週は少しばかり厳しかった。業務量というよりも、精神的なプレッシャーを感じ続けることが多かった。つまり、いつなにが業務として発生し、それがそもそも解決するのかすらわからないような状況にさらされていた。結果としてそうした業務はなかったが、だから達成感も何もないまま、何かを成し遂げたのか、何かが進んだのかすらわからず、心の靄が晴れ切らないまま疲労だけが残されたのであった。

少なくともその食事会の翌日に誰もが疑いたくなるような業務が私に割り当てられたときの方が、気持ちは晴れ晴れとしていた。しかし統責のようなやり方も少しずつ排斥され、きっと今いるオフィス街もいずれガラス張りっぽい駅舎の中に取り込まれ、私だけでなく部署や部門や会社全体が何をやっているのかわからない会社になるのだろう。そんなすべてを飲み込むような時間の力に思いを馳せ、こんなフィクションをでっちあげたくなるほどに今日久々に食べたとんかつは美味だった。こんな架空のおっさんと一緒に仕事ができたことこそが現場にいた最大の成果なわけがなく、最大の成果はこのとんかつ屋に出会えたことだろうと思い、すべすべになった顎を撫でていたら今日が終わっていたのである。

書く

文章を書くということが久々だ。個人的につけていた日記はあるがそれすらもあまり書かなくなっている。連日の労働先での飲みを終えて、何も振り返っていなかったということをふと思い出す。

あることがあって何かが決定的に変わるなんてことはない。変わる客体もなくなったように思う。毎日は単調だ。同じ人と顔を合わせて、決まったルーティンとちょっとした刺激的な出来事に触れれば、時間なんてあっという間に経つ。反抗期を経験しなかったことが今になって恨めしい。私というある程度確かだと思うべきものが何もないままここまできてしまっている。さなぎの中の柔らかい部分のまま外に出ている。思えば昆虫はすごい。あんなプニプニしたものがどうして確かなものになるのだろう。誰かに教えてほしい。しかしそれを教えてくれる人など見渡してもいない。そんななかに私はいる。そんななかにこれまでいた。

毎日が本当に単調でそれを恐ろしく思っていた。本質的なことを何もすることがないまま毎日が過ぎていき、年を取るということが怖くて仕方がなかった。怖かった。この怖さに蓋をすることは野暮だと思うまでに至った。だからあえて言うが、怖い。

誰もに理解されるような何かを作りだすことが怖い。そんな何かを作り出すことができるわけもないがそれを試みることが怖くなった。素直に試みようと思った時期があったからなおさらそう思うようになっている。理解されたくないが理解されたいというどうしようもない矛盾がある。根本的にマゾすぎて理解されないことを欲している。

それが今や素直に自己を開示することが労働であってもよいと思うようになった。労働先での話し方や、個性というものが確立してきた。確立しない、どうでもよいという無気力な人という形で私があるようになった。ただそうすることで前より人が私に話してくれるようになった。前よりも多くの人に気にかけてもらえるようになった。何か理想があってそれを実現しようという力は消え失せた。そんな根本的なことができるなら誰だって悩んでいない。この悩みは行き場のないエネルギーに由来する。

燃え尽きた人間というのが随所で話題になる年頃になった。出世や貢献に邁進する人たちがまぶしく思える。違う、目の前の困難に率直に反応できる人たちがまぶしい。これをしなければ、と思うとき、確かな自分を皆は確かめているのだろう。私には確かめられない。誰かがきっとやってくれる、誰も解決できなかったことは私にもきっと簡単には解決できない。私はいつだって試験勉強をするときも解答に頼ってきた。私一人でできることなど何もない。あることを私一人で成し遂げたと言い切るほどのエネルギーもない。言い切るエネルギーがあるなら他人にまぶしさなど感じはしないだろう。

私はこうして考えたことをまとめることそれ自体に喜びを見出していた。しかし喜びを感じること自体に揺らぎが生じている。どうして書くのか?どうして自分を開示したいと思うのか?そう思いながらもこの文章を書いているのはどうしてか?根本的に逃れられない何かにつながれているように思う。この何かを明らかにしたいというのがせめてもの願いではあるが、そんな願いを実現しようとも思わない。

過度の一般化や感想文を止めるつもりはない。それを辞めるということは、確かな自分を証明するようなことでしかないような気がするようになった。私だってまわりに強いことを言いたい。私だってある原因に基づいて結果を予測したい。しかし私もわからなければ原因も結果も何を指すのかわからない。ただあるのは漫然と続く毎日の出勤といおかずみたいなイレギュラーである。私はその中で生きていて、その中に生きている人たちとそれとない会話を交わし、それとなく理解しあう経験を共有している。

そしてそれは幸せなことでもある。生きることが楽になったとき、本質的な悩みは失われいる。本質的なものがわからなくなって、わからないこともどうでもよくなったとき、目の前の出来事が重要なことのように思えてきた。そしてなおさらわからないことはどうでもよくなってくるのであった。